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本郷の学生街

明治前期、本郷周辺には「東京大学」をはじめ、多くの学校が開校、または移転してきており、周辺の下宿や寮に多くの学生が暮らすようになった。また、学生を相手とした古書店などの商店や飲食店なども増え、学生街として発展した。


「本郷古書店街」 MAP __

1887(明治20)年頃から、「帝国大学」に近い本郷森川町(現・本郷六丁目)を中心とする「本郷通り」(「森川町通り」とも呼ばれた)沿いに「本郷古書店街」が形成された。「本郷通り」の本郷四丁目~追分の区間は、市区改正事業により1907(明治40)年に拡幅されているため、写真はそれ以前の撮影となる。【画像は明治後期】

写真は現在の「本郷古書店街」の様子。「本郷通り」の東側(写真では右側)は「東京大学」の敷地となっている。

東京最大の規模だった「本郷下宿屋街」

明治前期、「東京大学」をはじめ多くの学校が本郷周辺に新設、または移転してきたことにより、近辺には下宿屋も多数開業した(以下「本郷下宿屋街」(通称))。近くには医学校の病院も多く、通院のため下宿屋を利用する患者もいたという。当時は、多くの学校が集まる神田に大きな下宿屋街が形成されていたが、閑静な「本郷下宿屋街」から神田に通う学生もいた。1887(明治20)年の統計では、東京で最も下宿屋が多かったのは神田で394軒、「本郷下宿屋街」は355軒であったが、1892(明治25)年には「本郷下宿屋街」が371軒、神田が315軒と逆転、以降、昭和初期まで東京最大の下宿屋街であった。明治末期の「本郷下宿屋街」は、500軒以上まで増えたが、その後減少し、昭和初期には200軒以下になったという。下宿屋から旅館への転業も多くなり、1928(昭和3)年、本郷の旅館は120軒を数えた。【画像は1930(昭和5)年頃】

写真は1957(昭和32)年頃の旅館「太栄館」。明治期には高級下宿の「蓋平館別荘」で、1908(明治41)年9月からの約9ヶ月間、石川啄木が金田一京助の紹介で暮らした。「太栄館」と改称したのは1935(昭和10)年頃で、明治期からの建物は1954(昭和29)年の火事で焼失した。写真は再建後の1957(昭和32)年頃の撮影。写真の中央下付近に「石川啄木由縁の宿」の碑が建てられている。
MAP __【画像は1957(昭和32)年頃】

戦後、「太栄館」をはじめ、本郷の旅館は、地方から東京に来る多くの修学旅行生にも利用された。「太栄館」は2014(平成26)年に廃業、跡地はマンションとなったが、「石川啄木由縁の宿」の碑は敷地内に残されている。

明治中期に下宿屋が発展した本郷には学生寮も多く誕生した。その中には、地方の有力者が地元出身の学生のために設置した学生寮(のちに県人寮に発展)や、宗教団体が信者のため設置した学生寮もあった。「帝国大学青年会」(現「東大学生YMCA」)は1888(明治21)年に発足したキリスト教精神に基づく団体で、1898(明治31)年、本郷台町に「台町会館」が完成した。ここは、学生寮として利用されたほか、祈祷会や講演会などが行われた。その後、「帝国大学青年会」は規模拡大のため本郷追分町(現・向丘一丁目)へ移転することになり、この建物は1912(大正元)年に売却された。写真は明治後期、「菊坂」付近からの撮影。
MAP __(台町会館跡地)【画像は明治後期】

現在、「菊坂」付近には建物が多く立ち並び、「台町会館」の跡地付近は見えない。写真左の建物は「旧伊勢屋質店」。作家の樋口一葉が「菊坂」の家に住んでいた時、生活が苦しくなると利用した質屋。現在は廃業しており、内部の公開が行われている。「台町会館」の跡地は旅館として利用されたのち、現在は「天理教」の教会となっている。「台町会館」からの歴史を引き継ぐ「東京大学YMCA寮」は、現在も向丘一丁目にある。
MAP __(旧伊勢屋質店)

多くの文化人が長期滞在した「菊富士ホテル」 MAP __

「菊富士楼」は、1896(明治29)年、本郷区本郷菊坂町(現在の文京区本郷三丁目14番)に開業した下宿屋。写真は明治後期、南西側からの撮影で、右奥の大きい建物が「菊富士楼」。左に見える坂道は「長泉寺」への参道。

本郷の下宿屋は、明治中期以降、岐阜県の西濃地方出身者が上京し経営を始めたところも多く、この「菊富士楼」や、近年まで創業時の1905(明治38)年築の建物が残っていた「本郷館」も岐阜県出身者の経営であった。 【画像は明治後期】

1914(大正3)年、地上3階建てで塔と地下を持つ建物を新築し、「菊富士楼」を改称し「菊富士ホテル」とした。これは同年開催の「東京大正博覧会」の宿泊客を見込んでのことで、開催中は外国人も多く宿泊したというが、その後、次第に作家・文化人が長期滞在する『高級下宿』となっていった。竹久夢二、谷崎潤一郎、宇野千代、尾崎士郎など多くの作家・文化人が止宿し、ここを舞台に数々の作品やエピソードを残した。写真は大正期~昭和戦前期、南東側からの撮影。塔の4階部分には、見晴らしは良いが、質素で賃料も一番安い屋根裏部屋があり(「塔の部屋」と呼ばれた)、坂口安吾は1936(昭和11)年からの一時期、ここに暮らした。 【画像は大正期~昭和戦前期】

1944(昭和19)年に売却され、翌年、「太平洋戦争」中の「東京大空襲」で建物は焼失した。現在、跡地には「本郷菊富士ホテルの跡」の碑が建っており、その止宿者名には錚々たる作家・文化人が列記されている。
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