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邸宅地とその跡地

江戸期の本郷・小石川は、大名屋敷・武家屋敷が多数置かれており、明治期になると、その一部は華族や政治家、実業家などの邸宅となった。大正期には、都心近郊の住宅地として「大和郷」などが分譲された。現在、文京区内では、邸宅地・住宅地としての歴史を引き継いだ閑静な住宅地や庭園を見ることができる。


駒場へ移転する前の「前田侯爵邸」 MAP __(西洋館跡地)

江戸期の本郷一帯には、約10万4千坪もの敷地をもつ「加賀藩前田家上屋敷」があった。明治期に入り、このうち約9万1千坪が(旧)「東京大学」(のち「東京帝国大学」)の敷地となったが、残りの約1万3千坪、敷地の南西側一帯は、侯爵(華族の五爵の中で二番目)となった前田家の屋敷地として引き続き使用された。写真は1907(明治40)年、第16代当主・前田利為(としなり)が建てた西洋館で、完成した頃の撮影。この頃、日本館も整備された。【画像は1907(明治40)年頃】

1910(明治43)年の明治天皇の「前田侯爵邸」への行幸にあたり、同年に庭園が築造された。写真は1911(明治44)年の撮影で、手前がこのとき整備された庭園、奥が西洋館。その後、1926(大正15)年、「東京帝国大学」の本郷の敷地が手狭になったことから、駒場にあった農学部の土地の一部と、本郷の「前田邸」の土地を交換することになり、1928(昭和3)年に建物も含め、「東京帝国大学」の所有に。この西洋館は、1935(昭和10)年には「懐徳館」と命名されて保存・利用されていたが、「太平洋戦争」の空襲で焼失。戦後、日本館の一部が再建された際、「懐徳館」の名称が引き継がれ、庭園とともに現在に至っている。【画像は1911(明治44)年頃】

西洋館の跡地は、現在の「東京大学総合研究博物館」の入口付近となる。庭園は2015(平成27)年、「懐徳館庭園(旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園)」として国の名勝に指定された。写真は「東京大学総合研究博物館」の近くに、2007(平成19)年に新設された「懐徳門」。「東京大学総合研究博物館」の工事で出土した、西洋館の煉瓦造りの基礎が保存・展示されている。
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「細川侯爵邸」の門前にあった「鶴亀松」 MAP __

現在の目白台一丁目周辺は、江戸期には「熊本藩細川家抱屋敷」「豊岡藩京極家下屋敷」「安志藩小笠原家下屋敷」など、武家の別荘的な屋敷が置かれていた。明治期に入り、このあたりには侯爵となった「細川家」の邸宅地となった。写真は「細川邸」の門前にあった老松「鶴亀松」で、明治中期の撮影。手前の高い松が「鶴の松」、奥の低い松が「亀の松」と呼ばれたが、「鶴の松」は1905(明治38)年頃、「亀の松」は1933(昭和8)年頃に枯れてしまった。この松は、明治初期に命名された、この一帯の町名「高田老松町」の由来ともなっている。【画像は明治中期~明治後期】

現在、「細川邸」の跡地は、「和敬塾」「小石川消防署 老松出張所」「目白台運動公園」「肥後細川庭園」「永青文庫」などになっている。かつて老松「鶴亀松」があったあたりには、現在は「小石川消防署 老松出張所」(写真中央)がある。「和敬塾」(写真左)は「前川製作所」創業者の前川喜作氏が「細川邸」の敷地の一部を購入し、1955(昭和30)年に創設した地方出身者のための学生寮。現在も「細川侯爵邸」時代の庭園や、1936(昭和11)年に建設された洋館を敷地内に残している。「目白台運動公園」(写真右)は、戦後、「細川邸」の旧敷地の一部に開設された「国家公務員共済組合連合会運動場」を前身とし、2009(平成21)年に区立の公園として開園した。

「永青文庫」は1950年(昭和25)年に開設された、細川家の蒐集品などを研究・収蔵する施設で、1972(昭和47)年から一般に公開されるようになった。現在は18代当主の細川護煕元内閣総理大臣が理事長を務める。1960(昭和35)年、東京都は細川家の土地を購入し、翌年「新江戸川公園」を開園している。1975(昭和50)年に文京区に移管、2017(平成29)年、改修工事の竣工に合わせ「肥後細川庭園」へ改称された。写真は現在の「肥後細川庭園」で、「永青文庫」は北側の隣接地にある。
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「六義園」の歴史 MAP __

1695(元禄8)年、五代将軍・徳川綱吉の家臣で当時の川越藩主・柳沢吉保(よしやす)は、加賀藩前田家の下屋敷跡地約2万7千坪を拝領。「墅所(べっしょ)」(のちに下屋敷となる)として回遊式庭園と屋敷の造営を進め、1702(元禄15)年に完成。庭園は「六義園(りくぎえん、当初の読みは「むくさのその」とも)」、屋敷は「六義館(むくさのたち)」と命名された。紀州(現・和歌山県)の「和歌の浦」などの景観が「八十八境」として表現されている。池の水は、当初は「千川上水」から引かれていた。柳沢吉保は1704(宝永元)年に甲府藩主となり、その後、柳沢家は郡山藩(現・奈良県大和郡山市)へ転封となるが、「六義園」は明治期を迎えるまで「郡山藩柳沢家下屋敷」として使用された。図は宝暦年間(1751~1764年)に描かれた『六義園全図』の写しの一部。右下に「六義館」が描かれている。

1878(明治11)年、「三菱財閥」の創業者・岩崎彌太郎が「六義園」とその周辺の土地を購入、一帯に約12万坪を所有するようになり、「六義園」内の「六義館」跡地には小邸が構えられた。三代社長の岩崎久彌は、一時期「六義園」内の小邸を住居としても利用していた。写真は明治後期~大正前期の「六義園」で、写真中央に「仙禽(たづの)橋」(「田鶴橋」とも呼ばれる)、写真奥に小邸が見える。【画像は明治後期~大正前期】

「六義園」は、1938(昭和13)年に東京市に寄贈され、同年より一般に公開されるようになった。写真は現在の「六義園」。1953(昭和28)年に特別名勝に指定された。現在の「六義園」を囲む赤煉瓦の塀は、戦後、管理用に建てられたもの。

「大和郷」の分譲 MAP __(大和郷幼稚園)

「三菱財閥」の三代社長、岩崎久彌は、1916(大正5)年に従弟の岩崎小弥太に社長を譲り、以降は農牧に力を注いだ。「六義園」周辺の土地でも牧畜に取り組んでいたが、大正期に入り、東京市の住宅不足が問題になってくると、「六義園」の南西側隣接地一帯(現・文京区本駒込六丁目の一部)を高級住宅地として造成。1922(大正11)年に「大和村(やまとむら)」として分譲した。名称は、隣接する「六義園」が大和国(現・奈良県)の「郡山藩柳沢家下屋敷」跡地であったことに由来する。その後、「内務省」から東京市内に「村」があるのは紛らわしいとの指摘を受け、「大和郷」と漢字を変更した。写真は1930(昭和5)年頃の様子。購入者は「三菱財閥」の関係者が多く、以降、住民の中には、3人の首相をはじめ、政治家、官僚、実業家、学者などが居を構えた。【画像は1930(昭和5)年頃】

分譲開始となった1922(大正11)年、住民の和合協力を目的とする「大和村組合」が設立され、1925(大正14)年には社団法人の「大和郷会」となった。現在は「一般社団法人 大和郷会」となり、町内会的な役割も担い、高級住宅街としての伝統を引き継いでいる。1929(昭和4)年には住民の子どもの保育のため、「大和郷会」が経営する「大和郷幼稚園」も開園した。幼少期に「大和郷」で暮らしていた、上皇后美智子さまの出身幼稚園でもある。現在は学校法人の経営となったが、「大和郷会」が一部の土地を所有し、理事も「大和郷会」から出すなど、関係は深い。写真右は現在の「大和郷幼稚園」で、正面奥の赤煉瓦の塀から先が現在の「六義園」。

山縣有朋が作庭した「椿山荘」 MAP __

現在、関口台と呼ばれる地は、「武蔵野台地」の一部で、南側は「神田川」が削った低地となっている。この関口台の南側の傾斜地には椿が自生し、南北朝時代から「椿山(つばきやま)」と呼ばれる景勝地であり、江戸期には「久留里藩黒田家中屋敷」などが置かれた。1878(明治11)年、元勲・山縣有朋が「椿山」一帯を購入、「椿山荘(ちんざんそう)」と命名し東京の本邸とした。購入費用は、前年の「西南戦争」で得た恩賞が充てられた。ここで、有朋は趣味でもあった作庭を行い、約2万坪もの起伏豊かな地に、回遊式庭園を造り上げた。写真は明治後期~大正前期の「椿山荘」。のちに総理大臣も務めた有朋は、政財界の要人を「椿山荘」に招き会議を行うなど、国政を動かす場所ともなった。写真は、明治後期~大正前期の「椿山荘」の入口付近で、手前の橋は「駒塚橋」で、その下に「神田川」が流れる。【画像は明治後期~大正前期】

1918(大正7)年、大阪の財閥「藤田組」(現「藤田観光」の前身)の二代目・藤田平太郎が「椿山荘」を譲り受け、東京での別邸とした。「太平洋戦争」では大邸宅や樹木など多くを焼失したが、戦後、庭園の復興が行われ、1952(昭和27)年、ガーデンレストランとして「椿山荘」を開業、以降、人気の結婚式場として発展した。1992(平成4)年には、敷地内に「フォーシーズンズホテル椿山荘東京」(2013(平成25)年より「ホテル椿山荘東京」)も開業している。現在も「椿山荘」には広大な庭園が整備されており、四季折々の自然を楽しむことができる。写真は、現在の「神田川」で、「駒塚橋」は上流に移設されている。対岸には「椿山荘」の「冠木門」がある。

茗荷谷の塔のある家 MAP __

写真は大正初期、茗荷谷町に建てられたという、木造7階建て、上層階ほど広くなる「奇建築」ともいえる塔で、最上階が八畳間。当時、小石川の名物の1つでもあった。広島藩士の子息で資産家の田口邸の一角に建てられ、頑丈な地下室も設け、自家用のビールの醸造を行っていた。「関東大震災」では倒壊しなかったものの、その後、消防署の命令で上層階は撤去されたという。当主の没後、貸家となり、詩人・フランス文学者の堀口大學は、1932(昭和7)年から静岡県に疎開する1941(昭和16)年までの間、ここで暮らしている。【画像は大正後期】

この建物は「太平洋戦争」時に戦災で焼失した。建てられていた正確な場所は不明であるが、当時の地番から、現在の文京区小日向一丁目23番付近と思われる。


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