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本郷・小石川の商業の発展

江戸期の本郷・小石川では「中山道」などの街道沿いや、大きな寺社の門前で商業が発達した。明治期以降もその賑わいが引き継がれたほか、軍需産業・印刷業など産業の発展とともに、新たな商業地も誕生した。


『本郷も かねやすまでは 江戸の内』

京都の口中医(現在でいう歯科医)の兼康(かねやす)家は、徳川家康の江戸入府に従い、芝(現・港区)に移住した。その後、歯薬などを扱う商店「兼康」を芝・神明前に開き、1617(元和3)年には分家が本郷三丁目の交差点の南東側の角地に支店を出した。元禄年間(1688~1704年、享保年間(1716~1736年)の説もあり)、「乳香散(にゅうこうさん)」という歯磨粉を本郷の店で販売すると大評判となり、多くの客で賑わったという。その後、芝と本郷の店の間で元祖争いが起き、「町奉行」の大岡越前守忠相の裁定により、本郷の店の屋号は「かねやす」と平仮名になった。また、1730(享保15)年に湯島・本郷一帯で大火があり、その復興の中で、大岡越前守忠相は「江戸城」から本郷三丁目にかけての「中山道」沿いの家は、耐火のために茅葺きを禁じ、牡蠣殼葺きの土蔵造り・塗屋造りとすることを命じた。このため、本郷三丁目を境に街並みが大きく変わることとなり、その境目で「かねやす」の土蔵が目立っていたことから、明和年間(1764~1772年)頃、『本郷も かねやすまでは 江戸の内』と川柳に詠まれた。

図は、明治末期に描かれた「かねやす」の店頭の様子。
MAP __【図は明治末期】

明治末期と昭和50年代に道路の拡幅などにより若干移転しており、現在は「本郷三丁目交差点」の南西側角地に「かねやすビル」が建てられている。
MAP __(かねやすビル)

大正期の「本郷通り」の賑わい MAP __

湯島・本郷あたりの「中山道」は、江戸期より「本郷通り」とも呼ばれ、通り沿いは商業が発達していた。明治期に入ってもその賑わいは続き、「東京大学」ができると、学生相手の書店・飲食店などの商売も盛んになった。また、周辺に病院や医学校が多いこともあり、医療機器の店舗も目立つようになった。写真は1915(大正4)年の大正天皇の「御即位大典」の際、本郷三丁目の交差点に造られた「奉祝門」。現在の「本郷三丁目交差点」の北から南方向を撮影したもの。右奥のドームがある建物は「東京銀行 本郷支店」。「東京銀行」(戦後の「東京銀行」とは別の銀行)は、現「みずほ銀行」の前身となる銀行の一つ。【画像は1915(大正4)年】

現在の「本郷三丁目交差点」。明治~大正期の「市区改正事業」での道路拡幅や、1923(大正12)年の「関東大震災」(以下震災)後の復興の区画整理などもあり、街並みは大きく変わっているが、商業地としての賑わいは引き継がれている。「東京銀行 本郷支店」があった右奥の角地には「かねやすビル」が見える。

「本郷消防署」望楼から見た1936(昭和11)年の街並み MAP __(本郷消防署)

1936(昭和11)年の「本郷消防署」から北方面の様子。手前の建物は「本郷尋常小学校」。その奥一帯に「東京帝国大学」のキャンパスが拡がる。「本郷尋常小学校」は1945(昭和20)年の「太平洋戦争」中の空襲で全焼、翌年廃校となった。【画像は1936(昭和11)年】

写真は現在の「本郷消防署」付近から北方面の様子。「本郷尋常小学校」の跡地には1952(昭和27)年に「文京区立第四中学校」の新校舎が完成、移転してきたが、1998(平成10)年に「文京区立第二中学校」と統合され「文京区立本郷台中学校」となり、旧「第二中学校」の場所へ移転した。左の建物は「第四中学校」の跡地に2013(平成25)年に開館した「文京総合体育館」。この道路の先は「東京大学 本郷キャンパス」で、入口には、当時の内田祥三教授が設計し1933(昭和8)年に完成した「龍岡門」がある。その先、写真中央の高い建物は、丹下健三氏の設計で1979(昭和54)年に完成した「本部棟」。

1936(昭和11)年の「本郷消防署」から南方面の様子。右の広い通りは震災復興で拡幅された。この通り沿いの左側奥には、終戦頃まで「本郷座」があった。【画像は1936(昭和11)年】

写真は現在の「本郷消防署」付近から南方面の様子。このあたりには医療機器の会社も多い。正面奥の高層の建物は「順天堂大学医学部附属順天堂医院」。

1936(昭和11)年の「本郷消防署」から東方面の様子。手前左の建物が「本郷区役所」。右奥の横長の建物は「湯島尋常小学校」。左奥の大きい建物は「上野松坂屋」。その手前に見える鳥居は「湯島天満宮」。「春日通り」には市電(のち都電)が通っている。【画像は1936(昭和11)年】

写真は現在の「本郷消防署」付近から東方面の様子。「春日通り」には大塚と錦糸町を結ぶ都電16系統が走っていたが1971(昭和46)年に廃止された。写真の都営バス「都02」系統はその代替として同じルートを通っている。

1936(昭和11)年の「本郷消防署」から西方面の様子。手前左の建物が「中央会堂」。【画像は1936(昭和11)年】

写真は現在の「本郷消防署」付近から西方面の様子。この先が「本郷三丁目交差点」となる。

昭和30年代の文京区内の商店街

「中山道」と「奥州道」は、「駒込追分」で分かれた後、しばらく並行して進むが、その2つの街道を、現在の東京メトロ南北線「本駒込駅」付近でつなぐ道(「団子坂」につながる道でもある)のあたりは、古くから通称で「槙町」と呼ばれ、明治中期には駒込・白山の辺りで唯一の商業地となっていた。戦後、この通りの商店街にはアーケードが設置され、「まき町アーケード」として賑わった。写真は1961(昭和36)年頃の様子。
MAP __【画像は1961(昭和36)年頃】

現在は「白山上向丘商店街」の一部となっており、アーケードは廃止されている。マンションや雑居ビルに建替えられた建物も多いが、同じ屋号で営業を続ける店舗も見られる。

現在の「地蔵通り商店街」のあたりは、江戸期は小日向村の一部で田畑が広がっていたが、その後徐々に家が建てられるようになり、明治期に入り小日向町となった。「江戸川」(現「神田川」)より南に位置するが、小石川区(現・文京区)の一部を成し、西・南側で牛込区(現・新宿区)と接する。明治期には町家が建ち並び、町内をはじめ、周辺には製紙工場もあり、一帯は印刷業の集積地として発展した。また、早稲田方面から「東京砲兵工廠」まで歩いて通う工員が多く、その通勤路沿いとなる小日向町で商店が開かれるようになり、大正期には商店街へ発展し「地蔵横丁」と呼ばれた。この地域は震災での類焼もなく、戦前期には多くの人で賑わった。「太平洋戦争」では大きな被害を受けたが、早い復興を見せ、1950(昭和25)年には商店会「地蔵横丁親睦会」を結成。高度経済成長期には、周辺の印刷業などの興隆もあり、大変な賑わいを見せた。写真は1961(昭和36)年頃の「地蔵通り商店街」。
MAP __【画像は1961(昭和36)年頃】

かつての小日向町は、現在の関口一丁目の一部にあたる。1974(昭和49)年、この商店街の北側に東京メトロ有楽町線「江戸川橋駅」が開業し便利な町となった。写真は現在の「地蔵通り商店街」。通り名・商店街名にある「地蔵」とは、通りの西側入口にある「子育て地蔵尊」の地蔵堂から。これは、明治初期頃、「江戸川」(現「神田川」)の氾濫で、どこからか流れ着いた地蔵を地元の人が祀ったものといわれる。


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