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戦後の「立川駅」北口

終戦後、「立川飛行場」は米軍が接収・進駐し、立川は基地の街となった。駅北口には露店やヤミ市が立ち並び、1950(昭和25)年に「朝鮮戦争」が始まると米兵を相手とする商売で好景気となった。戦中期に行われた建物疎開と「緑川」の掘削は、戦後の北口の街づくりの原点となった。その後、駅周辺には大型の商業施設がオープン。現在も立川で営業を続ける「伊勢丹」「髙島屋」も開店しているが、どちらも現在とは違う場所にあった。


米兵でも賑わった商店街 MAP __

写真は昭和30~40年代の北口の様子。写真中央のアーケードは「高松通り」の商店街。写真左下、「多摩中央信用金庫」の先に入口がある「フインカム前商店会」は、「立川基地」の正門を出て北西に向かう道沿いにあり、米兵向けのバー・キャバレーなども多かった。【画像は昭和30~40年代】

写真は「曙町二丁目交差点」から北方向を望む。中央の通り沿いには「高松大通り商店街」が延びる。この通りは、東京都が1984(昭和59)年に通称道路名として設定した「立川通り」の一部となる。左奥に延びる道はかつて「フインカム前商店会」があった通りで、現在は立川市により「南北道路」の愛称がつけられている。

「緑川」の掘削と暗渠化

戦前の立川では、大雨が降ると広大な飛行場に降った雨が駅前に集まり洪水になった。飛行場完成からわずか3年後の1925(大正14)年には町議会で洪水対策を求める声も挙がったが、排水路の工事に着手したのは戦時中の1943(昭和18)年頃で、未完成のまま終戦を迎えた。戦後、米軍の協力もあり1947(昭和22)年に完成、翌々年に「緑川」と命名された。当初は素掘りであったが、1954(昭和29)年にコンクリート護岸に改修された。写真は1954(昭和29)年頃の「緑川」に架かる「曙橋」で、写真右に映画館「立川セントラル劇場」がある。【画像は1954(昭和29)年頃】

現在の様子。このあたりの「緑川」の暗渠上は「緑川通り」となっている。交差点名「曙橋」にかつての橋名が残る。 MAP __(撮影地点)

「緑川」では、昭和30年代から転落事故防止などのため暗渠化が進められ、川の上には道路・駐車場・公園などが整備された。バスが駐車されている場所が「緑川」の暗渠。その奥に「立川セントラル劇場」などが並ぶ。右の大きい建物は1970(昭和45)年に移転となる「伊勢丹」。【画像は1962(昭和37)年頃】

「立川セントラル劇場」などがあった場所より北側一帯では再開発が行われ「ファーレ立川」となり、3軒の映画館があった場所は「シネマシティ」の「シネマ・ワン」(写真左側のビル)となっている。 MAP __(シネマ・ワン)

「立川駅」北口の戦後の変遷

立川では、「太平洋戦争」中の1944(昭和19)年、北口駅前などで建物疎開が行われた。空襲により生じる被害を防止・軽減するため空地を設けるもので、駅前や「仲町通り」の東側などの建物が取り壊された。結局、立川の市街地は大きな空襲を受けることはなかったが、戦後、「駅前広場」や「北口大通り」としてこの空地が整備され、結果的に現在の北口の街づくりの原点となった。写真は1950(昭和25)年頃撮影の「立川駅北口広場」。【画像は1950(昭和25)年頃】

写真は現在の様子。 MAP __(撮影地点)

写真右奥、駅前広場に面する場所に1961(昭和36)年に開業した「立川銀座デパート」。古くよりこの地で米穀肥料などの販売や倉庫業を営んできた「岩崎倉庫」などによるビルで、「髙島屋」の子会社「東京ストアー」などがテナントとして入っていた。増床・改装を機に「立川髙島屋」となり、1970(昭和45)年にオープンした。写真中央奥は「第一デパート」。【画像は1966(昭和41)年】

1990(平成2)年から2009(平成21)年に行われた「立川駅北口駅前土地区画整理事業」により、かつての「立川髙島屋」の北側部分は「立川共同ビルディング」となり、2001(平成13)年に「伊勢丹 立川店」が移転・開店した。南側部分はバスターミナルの一部となっている。 MAP __(撮影地点)

写真は1970(昭和45)年頃の「立川駅」北口駅前、「北口大通り」の様子。右奥に見える「東急ハウジングセンター」の場所は「伊勢丹」があったが、1970(昭和45)年に、「丸井」の向かい側付近に移転した。【画像は1970(昭和45)年頃】

現在は「丸井」があったビルには「ロフト」が、「伊勢丹」があったビルには「ビックカメラ」が入っている。 MAP __(撮影地点)


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