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「靖國神社」と娯楽

「靖國神社」は、幕末期の戦乱による殉死者を慰霊するために創建された「招魂社」を始まりとし、その後、内外の戦争での殉死者が合祀されるようになった。そのため、軍人や遺族をはじめ、多くの国民が参拝に訪れるようになり、特に例大祭では競馬や相撲の興行も行われるなど賑わいを見せた。周辺には花街も誕生、聖地であると同時に娯楽の場としても発展した。


「東京招魂社」から「靖國神社」へ MAP __

幕末期、戦乱による殉死者を慰霊する「招魂場」が各地に造られるようになり、1868(慶応4/明治元)年、明治天皇より京都東山に招魂のための社を建立するよう「太政官布告」が発せられた。その後、「東京奠都(てんと)」に伴い、長州藩士・大村益次郎は東京での「招魂社」の創建を建議、1869(明治2)年、九段に軍が管轄する「東京招魂社」(以下「招魂社」)が創建された。当初は仮神殿であったが、1872(明治5)年に「本殿」が竣工。1879(明治12)年に「靖國神社」へ改称となった。その後、「日清戦争」など対外戦争での殉死者も合祀されるようになり、「国家神道」の中心的神社となった。写真は明治初期の撮影で、中央奥が「本殿」。【画像は明治初期】

戦後、「GHQ」の中には「靖國神社」は解体すべき、との主張もあったが、「信教の自由」の保障と、多くの兵士の御霊(みたま)が祀られている地を破壊することは占領政策上マイナスになるとの判断もあり、「政教分離」の原則により、国家管理を離れて宗教法人として存続することになった。「本殿」は1872(明治5)年の建設当時のものが残り、現在は約246万6千柱の御霊が鎮まる。

図は1906(明治39)年に描かれた『別格官幣 靖國神社全図』。当時の境内の様子が細かく描かれている。【図は1906(明治39)年】

「招魂社競馬」の開催 MAP __

「招魂社」では、1870(明治3)年から「招魂社競馬」(のち「靖國神社競馬」)も行われた。陸軍の主催で、例大祭の余興の一つとして行われ、観客も多く集まり盛大に開催されたという。しかし、競馬を行うには狭かったことから、1898(明治31)年に廃止となった。【画像は明治初期~明治中期】

競馬場は、現在の参道を回る細長いコースで、一周は約900m、日本人によるものとしては最初となる洋式競馬であった。軍馬が出場し、騎手は軍人が務めており、馬術の向上や馬の改良、陸軍の一般市民への広報活動なども目的にあったという。図は1883(明治16)年頃の「靖國神社」周辺の地図で、参道部分に競馬場が描かれている。【地図は1883(明治16)年頃】

「招魂社」での相撲奉納 MAP __

「招魂社」では、相撲の奉納も1869(明治2)年の創建時から行われ、のちに例大祭の余興の一つとなり親しまれた。写真は1906(明治39)年頃の撮影。土俵の奥に見える建物は「靖國神社能楽堂」。もとは1881(明治14)年、「芝公園」内に「芝能楽堂」として建立された建物で、1902(明治35)年に「靖國神社」へ奉納された。1938(昭和13)年、新しい「招魂斎庭」の建設に伴い、「拝殿」手前の現在地に移築されている。【画像は1906(明治39)年頃】

現在も「靖國神社奉納大相撲」として、毎年4月に開催されている。写真は現在の相撲場の様子。

1882(明治15)年に開館した「遊就館」 MAP __

1877(明治10)年頃から「招魂社」の宝物館の建設が構想され、「靖國神社」となったのちの1882(明治15)年、「遊就館」として開館した。写真は明治後期~大正前期の撮影。その後、「日清戦争」などで軍が歴史を重ねるとともに、館の拡充が進められたが、1923(大正12)年の「関東大震災」で大破。翌年、仮館で再開している。【画像は明治後期~大正前期】

「遊就館」の震災復興の建物は、1932(昭和7)年に竣工。設計顧問は伊東忠太が務めた。写真は昭和初期の撮影。「日中戦争」「太平洋戦争」中は、戦地で接収した敵国の兵器も展示した。【画像は昭和初期】

「太平洋戦争」の終戦後、「遊就館令」廃止の勅令が出され閉館。1947(昭和22)年から「富国生命保険」の「九段本社」となり、1961(昭和36)年に隣接する「靖國会館」の一部に「宝物遺品館」を開設。1980(昭和55)年に「富国生命保険」が立ち退き、1985(昭和60)年、改修の上、「遊就館」として再開館した。写真は現在の様子で、1932(昭和7)年竣工の建物が現在も使用されている。

「靖國神社」の桜

「靖國神社」の桜は、1870(明治3)年、「招魂社競馬」を開催するにあたり、木戸孝允の命により、コースの外周に数十本の「染井吉野」が植えられたことに始まる。写真は明治後期の「靖國神社」境内。写真右に競馬場コースの外周に植えられた桜が並んでいる。明治期にはすでに桜の名所として知られていた。
MAP __(撮影地点)【画像は明治後期】

「太平洋戦争」では軍歌『同期の桜』の中にも歌われ、戦後、全国各地の戦友会などが殉死した戦友のために献木を行っており、その数は約1,000本にも及ぶ。「靖國神社」は現在も桜の名所として知られ、毎年多くの花見客も訪れる。境内にある「染井吉野」のうち3本は、「気象庁」が東京地方の桜の開花宣言をする際の標本木となっている。
MAP __(撮影地点)

パノラマ館の「国光館」 MAP __

パノラマ館とは、巨大な円筒状の建物の内側に絵を描き、人形や模型、照明と組み合わせて楽しませる見世物の施設で、日本では1890(明治23)年に上野と浅草に誕生して以降、人気となり、各地で建設されるようになった。1902(明治35)年には、九段下の「靖國神社附属地」に、「遊就館」の付属施設としてパノラマ館の「国光館」が開館、当初の絵は「義和団の乱」の様子であった。その後、パノラマ館の多くは、映画の発展などから明治40年代までに閉館しており、「国光館」も1907(明治40)年に閉館している。画像は1902(明治35)年~1907(明治40)年の撮影。【画像は1902(明治35)年~1907(明治40)年】

「国光館」が建てられていた「靖國神社附属地」は、幕末期には幕府により「蕃書調所」(洋学の研究教育機関で「東京大学」の前身の一つ)が置かれていた。明治期には噴水や碑があり、桜をはじめ四季の折々の花も楽しめる園地であった。かつて「国光館」があった場所には、1999(平成11)年に「昭和館」が開館した。ここでは、戦没者遺族をはじめ、国民が経験した戦中・戦後(1935(昭和10)年頃から1955(昭和30)年頃まで)の国民生活上の労苦についての歴史的資料・情報を収集・保存・展示している。

九段坂上にあった「富士見町花街」 MAP __

かつて、九段坂上は花街で賑わう地であった。「明治維新」の直後、旗本の町であった番町周辺は衰退。賑わいを取り戻すために花街の設置が請願され、1869(明治2)年、のちの競馬場付近で茶店の営業が認可された。その後、「招魂社」の南、当時の富士見町一丁目・三番町(現・九段南二・三丁目)一帯に移転、一時は衰退したものの明治中期に再興、「富士見町花街」として賑わうようになり、大正期に最盛期を迎え、昭和戦前期においても東京有数の花街となっていた。写真は1935(昭和10)年頃に撮影された「芸者横町」と呼ばれた通り。【画像は1935(昭和10)年頃】

「富士見町花街」は、「招魂社」(のち「靖國神社」)を訪れた軍人の利用が多かったほか、菊池寛、直木三十五、永井荷風など多くの文人も訪れていたという。戦時中に一時営業停止となり、戦後、再び花街として賑わったが、その後、番町の地価が上がると、料亭を廃業しオフィスビルへ建て替えられるようになり花街は衰退。1997(平成9)年に組合が解散となり、花街としての歴史を終えた。写真は現在の同じ通りの様子。この通りは、江戸期には「禿(かむろ)小路」と呼ばれていた。


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