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「麹町」と「番町」


「江戸城」の「半蔵門」と「四谷見附」

江戸初期に「江戸城」の西側、「内濠」を渡る場所に作られた「半蔵町口」(「半蔵門」の当時の名称)は、西へ向かう重要な街道「甲州街道」への門であり、防衛と交通の要衝であった。写真は1868(明治元)年の「半蔵門」。 MAP __【画像は1868(明治元)年】

門の名前の由来は、服部半蔵の「伊賀組屋敷」がそばにあったためといわれ、服部半蔵の改易後は「麹町口」と呼ばれていたが、その後、理由は不明ながら、再び「半蔵門」と呼ばれるようになった。写真は現在の「半蔵門」で、皇族の「皇居」への通用門として使用されている。

「江戸城」の「外濠」は、全国の大名を動員した「天下普請」により、三代将軍・徳川家光の時、1634(寛永11)年から1636(寛永13)年にかけて造られた。「半蔵門」を出て「甲州街道」を西へ向かい、「外濠」と交わる場所には「四谷見附」(「四谷門」とも呼ばれる)が置かれた。この「半蔵門」から「四谷見附」付近までの「甲州街道」沿いの町屋が「麹町」となる。写真は1922(大正11)年頃の「四谷門跡」。 MAP __【画像は1922(大正11)年頃】

写真は現在の「四谷門跡」。右に見える建物は「雙葉学園」の校舎、左に見える高層ビルは、2020(令和2)年に開業した再開発ビル「CO・MO・RE YOTSUYA」。


「麹町」の発展

『麹町永田町外櫻田絵図』の一部。

1860(万延元)年に描かれた『麹町永田町外櫻田絵図』の一部。「江戸切絵図」の中で最も有名な「尾張屋版(金鱗堂版)」と呼ばれる「金鱗堂」の尾張屋清七が発行したもの。「金鱗堂」は、現在の「麹町四丁目交差点」の南西側の角にあり、この『麹町永田町外櫻田絵図』の中にも「切ヅ板元金リン堂」と記されている。
【図は1860(万延元)年】
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「甲州街道」は、江戸期に幕府によって整備された五街道の一つ。「江戸城」の「半蔵門」から西へ延び、将軍の避難路の役目も想定し造成されたといわれ、沿道には防御のために寺院や同心屋敷が置かれた。「甲州街道」は「半蔵門」を出るとすぐに町人地の「麹町」となり、街道に沿って一丁目から十三丁目まで連なっていた。「外濠」の普請により「四谷見附」で分断される形となり、「外濠」の内側の十丁目までが、のちに麹町区(現・千代田区)の一部、外側の十一丁目から十三丁目は、のちに四谷区(現・新宿区)の一部となった。

この「甲州街道」の道筋は、さらに古くは現・府中市の国府(こくふ)へ向かう道「国府路(こうじ)」と呼ばれていたといわれる。江戸期に入ると、この道沿いの「江戸城」に近い場所に町人地が置かれ、幕府や武家の御用を務める商家で賑わうようになった。「半蔵門」付近に幕府の「麹御用」を務めた麹屋三四郎の店があったことから「麹」の字が当てられ「麹町」となったともいわれる(諸説あり)。町人地の先には武士の屋敷が建ち並んでおり、大名屋敷のほか、旗本など中下級武士の住居や大縄地(集合住宅)も多かった。

明治期に入ると、武家屋敷の多くは政府機関に収用され、大名屋敷のまとまった土地は官庁や大使館、陸軍の用地などに、旗本の屋敷の跡地は皇族・華族・官僚などの邸宅や学校などに利用された。武家の衰退とともに「麹町」の賑わいも急速に衰え、廃業や移転していった商店も多く見られた。

1878(明治11)年、麹町区が誕生、「麹町」は現在の千代田区の西部および南部一帯の地名ともなった。戦後の1947(昭和22)年、麹町区は神田区と合併し、千代田区が誕生した。現在、「甲州街道」沿いはオフィスビル街として賑わい、その周辺には、閑静な高級住宅地が広がり、官公庁、大使館、学校なども多く見られる。江戸期・明治期に形成された「麹町」の街としての性格は、現在も引き継がれているといえる。


「麹町」にあった大店「岩城枡屋」 MAP __

「岩城枡屋」は江戸期の「麹町」の大店の呉服店。江戸初期に近江で米商を開き、その後、大坂(現・大阪)で呉服店を開店、1690(元禄3)年に「麹町」に呉服店の支店を開店した。図は江戸後期に描かれた『いわきますや前の賑わい』。江戸においては、日本橋の「越後屋」「白木屋」などに次ぐ有数の呉服店であったが、その後、日本橋が一層の発展を見せたことに加え、幕末には主な顧客であった幕府や旗本の財政が悪化、さらに「明治維新」により不良債権も多く抱えることとなり、1884(明治17)年に閉店した。【図は江戸後期】

写真中央のビル、現在の「麹町四丁目交差点」の北東側角地が「岩城枡屋」の跡地。この写真の撮影地点付近が「金鱗堂」の跡地となる。

「番町」の歴史

「麹町」の北側にある「一番町」から「六番町」までの一帯は、江戸期から「番町」と呼ばれる地域。地形的には「武蔵野台地」の東端の台地上(「麹町台地」とも呼ばれる)に位置する。江戸期には旗本の屋敷があり、明治期に入ると宮家や華族、官僚などの邸宅地となり、公使館・大使館も置かれるようになった。文化的にも発展、上流階級の家庭の子女も多く、国際色も豊かな地になったことから、各種の学校やキリスト教会、ミッションスクールなども多く立地した。また、「靖國神社」をはじめ、軍関連の施設もあり、多くの軍人が訪れて賑わう街でもあった。戦後は「日本テレビ」の本社をはじめ、事業所やオフィスが進出、高級マンションも多数見られるようになった。鳥瞰図は1899(明治32)年に出版された本に掲載されたもの。当時の学校や邸宅などが細部まで描かれている。【図は1899(明治32)年出版】


「番町」の町名の変遷

1909(明治42)年発行の地図の番町部分

1909(明治42)年発行の地図の「番町」部分。青字は町名、赤字は江戸期の通り名・町名。
【図は1909(明治42)年発行】

江戸幕府では、旗本の内、文官は「役方」、武官は「番方」と呼ばれた。その「番方」の中でも「大番」は「江戸城」や江戸市中の警備などを担っていた。徳川家康の「関東入国」前までに「大番組」は6組編成されており、「関東入国」後、「一番組」から「六番組」までの屋敷地が「江戸城」北西側に設けられ、「一番町」から「六番町」と呼ばれるようになった。町名の数字は各番組を表しているもので、一から順に規則的に並んでいるわけではなかった。明治期に入って正式な町名となった際、概ね、江戸期の通称を引き継いだ。図は、1909(明治42)年発行の地図の「番町」部分。江戸期に「三番町」「四番町」と呼ばれた地域は、「靖國神社」のあたりまであり、明治期の町域より広かった。

『土地区画整理区域内外町界町名整理図』

『土地区画整理区域内外町界町名整理図』。
【図は1926(大正15)年発行】

「関東大震災」後の復興時、東京市の中心部では区画整理とともに、市内に1,500以上もあった町名も整理されることになった。「復興局」(震災復興を担った「内務省」の外局)は、「町界町名地番整理案」の懸賞を行い、市民の意見を募った上で、整理案を1925(大正14)年に作成・決定し、東京市へ送った。『土地区画整理区域内外町界町名整理図』はこのときの「復興局」決定案で、図はその「番町」付近。不規則に並び、わかりにくかった町名が、この案では規則的に整理されている。その後、東京市はこの案を参考に、地元住民の希望を踏まえ最終的な町界・町名を決定しており、現在の「番町」は、この図の時点での町名の並び順や町界とは異なっている。

1944(昭和19)年の「番町」一帯の地図

1944(昭和19)年の「番町」一帯の地図。
【図は1944(昭和19)年発行】

1933(昭和8)年、旧「三番町」と旧「四番町」は「九段」に変更され、旧「一番町」は「三番町」となった。さらに、1938(昭和13)年、旧「五番町」などが「一番町」、旧「下二番町」が「二番町」、旧「中六番町」が「四番町」、旧「土手三番町」が「五番町」、旧「下六番町」が「六番町」となり、この時、概ね現在の「一番町」から「六番町」の町名・町界となった。図は「番町」一帯が現在の町名に変更された後となる、1944(昭和19)年作成の地図。


「九段坂」の変遷 MAP __

江戸期の「九段坂」は現在より急勾配で、階段もあった。この坂沿いに、階段状に9段の石垣を築き、「江戸城」の役人のための長屋(「九段屋敷」とも呼ばれた)を置いたことが「九段」の名の由来。図は江戸後期、歌川広重が描いた『飯田町九段坂之図』。【図は江戸後期】

明治期になると「九段坂」は階段を無くして坂道となったが、依然、急勾配であったため、荷車押しを手伝うことで稼ぐ人もいたという。坂の上に「東京招魂社」(のち「靖國神社」)ができると、参拝客で賑わう坂道ともなった。1907(明治40)年には「東京鉄道」(市電の前身)により路面電車が建設されるが、急勾配を避けるため、専用の緩勾配の軌道を「牛ヶ淵」沿いに建設している。写真は明治後期~大正前期の撮影。写真右上に九段坂上のシンボル「常灯明台」(1871(明治4)年建造)が見える。【画像は明治後期~大正前期】

「九段坂」は「関東大震災」後の「帝都復興事業」により、拡幅されるとともに勾配が緩やかに改められ、歩道の下には共同溝も設けられた。写真は改修中の様子で、かつての路面電車の勾配程度にまで坂が削られていることがわかる。【画像は昭和初期】

写真は九段下側から撮影した現在の「九段坂」。

九段坂上のシンボルだった「常灯明台」は、元は「偕行社」前(写真中央奥)にあったが、拡幅工事に伴い、1930(昭和5)年に通りを挟んで向かい側となる現在の場所へ移築された。現在、周辺は「九段坂公園」となっており、2020(令和2)年に再整備が完了している。
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「九段坂」の改修は1933(昭和8)年に完成した。写真は昭和戦前期、完成後の様子。市電は道路の中央を通るようになっている。【画像は昭和戦前期】

写真は現在の「九段坂」で、九段坂上側からの撮影。写真右の建物が「九段会館テラス」。その左が「昭和館」となる。


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※本ページでは、現在の千代田区の西北、飯田橋・番町・麹町・紀尾井町一帯を対象としている。
 特に明記していない場合、「戦前」「戦時中」「終戦」「戦後」「戦災」の戦争は「太平洋戦争」のことを示している。



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