大正末期より、旧・長崎村(1926(大正15)年より長崎町)一帯に、画家をはじめ、音楽家、詩人など、芸術家が暮らすようになった。1930(昭和5)年頃から1940年代にかけて、100軒以上ともいわれるアトリエ付きの賃貸住宅が建てられ、一般に「長崎アトリエ村」とも呼ばれるように。のベ500人とも1,000人ともいわれる、多くの芸術家たちの創作活動の拠点となった。当時の池袋周辺は、家賃が安く、また「東京美術学校」(現「東京芸術大学」)がある上野をはじめ、目白、早稲田などへの交通の利便性も高く、若い芸術家が暮らしやすい場所でもあった。住人の一人、詩人の小熊秀雄は、この街をパリのモンパルナス(当時、日本人をはじめ多くの外国人芸術家が暮らしていた)になぞらえ「池袋モンパルナス」と呼んだ。
若き芸術家が多く集った「長崎アトリエ村」や、日本を代表する漫画家たちが青春時代を過ごした「トキワ荘」など、池袋周辺は文化・芸術活動が盛んな街でもあった。2代目の「豊島公会堂」は、戦後、区民の寄付により建設された。