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高級住宅地になった目白・落合

池袋周辺は、明治期から昭和にかけて、華族や文化人が邸宅を構えた地としても知られている。かつての「御留山」は「近衛邸」「相馬邸」となり、目白に建てられた「徳川邸」は「八ヶ岳山麓」に移築され現存している。寄宿舎制度を採り入れた「学習院 昭和寮」も上流階級の教養を培う場であった。


「箱根土地」が開発した「目白文化村」 MAP __

「箱根土地」(「西武グループ」の前身)により1922(大正11)年から分譲された落合一帯の「目白文化村」。電気、ガス、上下水道などが整備され、写真のように西洋風の住宅が並んでいた。テニスコートなどの施設もつくられ、学者や文化人も多く移り住んだ。【画像は1923(大正12)年頃】

現在も周辺は住宅街となっている。

「八ヶ岳」の麓に移築された、目白の「徳川邸」

1934(昭和9)年、東京の目白に「尾張徳川家」19代当主、徳川義親の邸宅が完成した。イギリス中世のチューダー様式の木造2階建てで、設計は「銀座和光」などを手掛けた渡辺仁。1968(昭和43)年に長野県南佐久郡南牧村の「八ヶ岳高原海の口自然郷」へと移築され、現在では「八ヶ岳高原ヒュッテ」として親しまれている。写真は移築中の様子。 MAP __(八ヶ岳高原ヒュッテ)【画像は1968(昭和43)年頃】

「八ヶ岳高原ヒュッテ」は、1976(昭和51)年に放送されたテレビドラマ『高原へいらっしゃい』の舞台としても知られている。現在、目白の「徳川邸」の敷地内には「徳川黎明会」の事務局、外国人用高級賃貸住宅「徳川ビレッジ」などがある。 MAP __(徳川ビレッジ)

イギリスの寄宿舎制度を採り入れた「学習院 昭和寮」 MAP __

1928(昭和3)年、かつての「近衛邸」の敷地の一部に、上流階級の教養を培う場としてイギリスの寄宿舎制度を採り入れた「学習院 昭和寮」が誕生。本館はスパニッシュ・コロニアル様式の瀟洒な洋館で、食堂、談話室、娯楽室などが設けられた。【画像は1928(昭和3)年頃】

1953(昭和28)年に「日立製作所」が譲り受け、現在は「日立目白クラブ」として利用されている。「東京都選定歴史的建造物」。

南側の見晴らしの良い傾斜地に沿うように配置された4棟の寄宿舎。学生たちはここで寮生活を過ごしていた。【画像は1930(昭和5)年頃】


華族や作家、多彩な人々が暮らした池袋周辺

目白文化村(画像は大正末期~昭和初期)

写真は「目白文化村」。【画像は大正末期~昭和初期】

若き芸術家が数多く暮らしていた池袋周辺は、一方で華族や富豪が邸宅を構えた場所でもあった。江戸時代に徳川家の御鷹場であった「御留山」は、明治期に入り近衛家の所有となったが、大正初期に西側一帯を相馬家が取得し住まいとした。1915(大正4)年にできた「相馬邸」の庭園は現在の「おとめ山公園」の原型ともなっている。

落合一帯は、明治期に入ってもなお、豊かな自然に囲まれた閑静な地であったことから、大正期から昭和前期にかけて、都心の喧騒を逃れて創作環境を求めた多くの文化人たちが暮らすようになった。

作家の林芙美子は、1930(昭和5)年に落合に移り住み、1939(昭和14)年に土地を購入、新居を構えた。現在は「新宿区立林芙美子記念館」として公開されている。一帯にはそのほか、武者小路実篤や壺井栄などが住んだことから、のちに「落合文士村」とも呼ばれるようになった。また、「箱根土地」が開発した「目白文化村」にも、学者や文化人が数多く移り住んだ。 MAP __(新宿区立林芙美子記念館)

歌人の柳原白蓮は、社会運動家の宮崎龍介と結婚後、西池袋に暮らしていた。龍介の父である宮崎滔天(みやざきとうてん)は、革命家の孫文と親友で、彼の活動を助けていたことで知られている。そのため、亡命中の孫文はこの宮崎邸に滞在していたという。


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