明治天皇が1912(明治45)年7月30日に崩御すると、「東京市会」(現「東京都議会」)は、その日のうちに、御陵を東京に造営することを国へ希望する請願を決議。8月3日に、東京市長は「枢密院」議長の山縣有朋に、御陵の件と明治天皇を祀る神社の設置を陳情した。しかし、御陵については、明治天皇の遺言から、8月6日に京都に造営(のちに「伏見桃山陵」と命名)されることが公示された。その後、東京市は神社(8月9日頃に仮称ながら「明治神宮」と呼ばれるようになったといわれる)の設置に向けて動き、8月14日には東京市長や東京の財界の有力者らが中心となり『明治神宮建設に関する覚書』を作成。この覚書には、『神宮は「内苑」と「外苑」から成る』『内苑は「国費」によって国が、外苑は「献費」によって奉賛会が造営する』『内苑の造営場所は「代々木御料地」、外苑の造営場所は「青山練兵場」が最適である』『外苑には「記念宮殿・陳列館・林泉」等を建設する』などと記されており、わずか半月で構想された計画ながら、のちに概ね実現となるものであった。これに記されている「代々木御料地」は「日本大博覧会 代々木会場」の予定地、「青山練兵場」は「日本大博覧会 青山会場」の予定地であった。
昭和初期の「神宮外苑」の平面図。
「帝国議会」では、1913(大正2)年に「明治神宮」の建設についての建議があった。これに前後して、「筑波山」付近、「富士山」付近、「箱根離宮」付近などを建設地とする請願も出されたが、翌年、正式な社名は「明治神宮」に、「明治神宮(内苑)」が「代々木御料地」、「神宮外苑」が「青山練兵場」に建設されることが決定した。
1915(大正4)年、国の「明治神宮造営局」が設置され、「明治神宮」が着工。造営工事には、1919(大正8)年より全国の青年団の勤労奉仕も加わり、1920(大正9)年に創建となった。
1915(大正4)年には、「神宮外苑」の造営を担当する民間団体「明治神宮奉賛会」も設立された。1917(大正6)年、「明治神宮造営局」に「神宮外苑」の設計・工事を委嘱、道路・競技場などの位置が決定し、翌年に着工となった。1917(大正6)年には「恩賜館」の「神宮外苑」への移築も着工しており、翌年竣工、「憲法記念館」(現「明治記念館」)と改称している。「神宮外苑」の工事でも、1920(大正9)年以降、全国の青年団の勤労奉仕が行われた。「関東大震災」による工事の一時中断を経て、1926(大正15)年に完成、「明治神宮」に奉献された。明治天皇の「葬場殿の儀」が行われた「葬場殿」があった場所には、「神宮外苑」の造営の中で「葬場殿址記念物」として、石壇が造営され、その中に「葬場殿址」の石碑が建立、記念樹として楠が植樹された。