平安末期、豊島氏は「平塚城」を構え、室町中期頃、豊島氏が「石神井城」を本拠とすると、「平塚城」はその支城となった。1477(文明9)年、豊島氏は太田道灌との戦いに敗れ「石神井城」は落城、翌年には「平塚城」も落城となった。「平塚明神社」は、豊島氏が、「後三年の役」の帰路に立ち寄った源義家(八幡太郎)から賜った鎧を、のちに塚(平塚の地名の由来ともいわれる)に祀ったことに始まるとされる。「平塚明神社」は江戸初期に再興され、三代将軍・徳川家光の庇護を受けて以降、発展した。図は江戸後期、『江戸名所図会』に描かれた「平塚明神社」。
現在の北区域は「武蔵野台地」と「荒川低地」からなり、見晴らしの良い「武蔵野台地」の崖線付近には、古代には豊島郡の中心として郡衙(ぐんが)が置かれ、中世には城も築かれた。