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近世までの北区域

現在の北区域は「武蔵野台地」と「荒川低地」からなり、見晴らしの良い「武蔵野台地」の崖線付近には、古代には豊島郡の中心として郡衙(ぐんが)が置かれ、中世には城も築かれた。


豊島氏ゆかりの「平塚城」と「平塚神社」 MAP __

平安末期、豊島氏は「平塚城」を構え、室町中期頃、豊島氏が「石神井城」を本拠とすると、「平塚城」はその支城となった。1477(文明9)年、豊島氏は太田道灌との戦いに敗れ「石神井城」は落城、翌年には「平塚城」も落城となった。「平塚明神社」は、豊島氏が、「後三年の役」の帰路に立ち寄った源義家(八幡太郎)から賜った鎧を、のちに塚(平塚の地名の由来ともいわれる)に祀ったことに始まるとされる。「平塚明神社」は江戸初期に再興され、三代将軍・徳川家光の庇護を受けて以降、発展した。図は江戸後期、『江戸名所図会』に描かれた「平塚明神社」。【画像は江戸後期】

「平塚明神社」は明治に入ると神仏分離により「平塚神社」と改称した。写真は現在の「平塚神社」。このあたりは、奈良・平安時代に武蔵国の「豊島郡衙」(豊島郡の役所)が置かれたと推定される地でもある。当時の豊島郡は現在の千代田区から北区・練馬区にかけての一帯で、その行政の中心地であったことになる。

「稲付城」と「道灌堂」 MAP __

「稲付(いなつけ)城」は戦国時代(豊島氏を滅ぼした後と考えられる)に、当時の江戸城主・太田道灌が築いたといわれる砦。道灌の死後、孫の資高(すけたか)が居城するようになり、1504(永正元)年、城の一角に道灌を弔う草庵「道灌寺」が建てられた。その後、「稲付城」は後北条氏の砦となったのち廃城となった。江戸前期の1655(明暦元)年、道灌の子孫・資宗(すけむね)は「稲付城」跡地に堂舎を建立し「静勝寺」とし、江戸期を通じて太田氏の菩提寺となった。道灌の250回忌にあたる1735(享保20)年には「道灌堂」も造営された。写真は明治後期~大正前期の「道灌堂」で、中に太田道灌の座像が祀られている。【画像は明治後期~大正前期】

写真は現在の「道灌堂」。道灌の命日である7月26日にちなみ、毎月26日に開扉される。

「王子稲荷」と「装束榎」

「王子稲荷神社」は、創建は不詳ながら、平安中期、源義家が「関東稲荷総司」として崇拝したともいわれる古社。古くは「岸稲荷」、江戸期には「王子稲荷大明神宮」などと呼ばれた。1634(寛永11)年には、三代将軍・徳川家光により社殿が造営された(「王子権現社」と同時)。現在の社殿は1822(文政5)年に建てられたもの。江戸期以降は、江戸町民の崇敬も集めた。写真は明治後期~大正前期の「王子稲荷神社」。
MAP __【画像は明治後期~大正前期】

写真は現在の「王子稲荷神社」。境内には「いなり幼稚園」が併設されている。

江戸期には、毎年大晦日の夜、関東各地から集まった狐たちが狐火を灯し、近くの榎の下で衣装を改めて「王子稲荷」に参拝する、という言い伝えが広まった。図は幕末の1857(安政4)年、歌川広重が描いた『名所江戸百景 王子装束ゑの木大晦日の狐火』。右奥の森が「王子稲荷」といわれる。この榎は「装束榎」と呼ばれた。【図は1857(安政4)年】

「装束榎」は、旧「ほりぶん」前の交差点付近にあったが、明治中期に枯れたという。その後、1929(昭和4)年に道路拡張のため切り倒され、近くに「装束榎の碑」を建立、のちに「装束稲荷神社」が創建となった。1993(平成5)年より、「狐火」の伝承に基づき、大晦日から元日にかけて、狐に仮装した行列が「装束稲荷神社」から「王子稲荷神社」まで練り歩く「王子 狐の行列」が行われるようになった。
MAP __(装束榎跡地)MAP __(装束稲荷神社)

渋沢栄一らの尽力で保存された「西ヶ原一里塚」 MAP __

一里塚は、江戸幕府が全国の主要街道沿い1里(約4km)毎に設置させたもので、旅人の行程の目印や休憩場所として利用された。道の両側に塚(土盛り)を築き、榎・欅などの木が植えられたものも多い。「日光御成道」(「岩槻街道」とも呼ばれた)の「西ヶ原一里塚」には榎の木が植えられていた。大正初期、市電の延伸に伴う道路改修工事で撤去されることになったが、近隣に邸宅を構えていた実業家・渋沢栄一、「古河財閥」の古河虎之助をはじめ、地元住民らの寄付・運動により、新道を迂回させ保存されることになった。写真は大正期の「西ヶ原一里塚」で、左の道路が一里塚を迂回する形で造られた新道。【画像は大正期】

「西ヶ原一里塚」は1922(大正11)年に、国の史跡に指定された。南西側の塚は、現在も上下線の道路の間にある。


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