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自由ヶ丘の誕生

「自由が丘」の地名は1927(昭和2)年に設立された「自由ヶ丘学園」に由来する。地元の文化人・住民らの要望から「自由ヶ丘」が駅名、正式な町名となり、戦時下においては改称を迫られるも、住民らは守り通したという。その後「自由が丘」に改称され現在に至っている。



自由が丘の地名の由来

自由が丘の地名は、「自由ヶ丘学園」が設立されたことに始まる。「自由ヶ丘学園」は、教育者の手塚岸衛(きしえ)氏が自由主義教育を目標に掲げ、荏原郡碑衾町に設立した学園。1928(昭和3)年に小学校と幼稚園が、1930(昭和5)年に中学校(旧制)が開設された。また、手塚氏と親交があった前衛舞踊家の石井漠氏は、「自由ヶ丘学園」のある場所や自由ヶ丘の名前が気に入り、1928(昭和3)年、「石井漠舞踊研究所」を武蔵境から「自由ヶ丘学園」のそばに移転させた。

1958(昭和33)年の「自由ヶ丘駅」

写真は1958(昭和33)年撮影の「自由ヶ丘駅」の駅舎(現「自由が丘東急ビル」付近)。屋根に街頭テレビが設置されている。 MAP __(自由が丘東急ビル)

1927(昭和2)年、東京横浜電鉄(現・東急東横線)が「丸子多摩川駅」(現「多摩川駅」)から「渋谷駅」まで延伸され、現在の「自由が丘駅」より北寄りの場所に「九品仏駅」が開設されたが、1929(昭和4)年の目黒蒲田電鉄(現・東急)二子玉川線(のちの大井町線)の開通で、「九品仏」の寺院により近い場所に現「九品仏駅」が開設されることになった。そのため、元の「九品仏駅」は改称が必要となり、新駅名は「衾(ふすま)駅」と内定したが、石井漠氏をはじめとする文化人の住民の強い要望を受け、「自由ヶ丘駅」へ改称となった。

その後、住民らが郵便物に正式な住所の代わりに「自由ヶ丘駅前〇〇番地」と記載するなど、自由ヶ丘は次第に地名としても通用するようになり、1932(昭和7)年6月、「衾西部耕地整理」の換地に合わせて正式に碑衾町自由ヶ丘(同年10月より東京市目黒区自由ヶ丘)となった。その後、戦時中には「自由」という言葉が相応しくないと町名の改称を求められたが、住民らは守り通したという。

戦後、1965(昭和40)年の住居表示実施時に「自由が丘」と、「ヶ」がひらがなになり、駅名も1966(昭和41)年に「自由が丘駅」へ改称し現在に至っている。


「自由が丘駅」の歴史

1927(昭和2)年、東京横浜電鉄(現・東急東横線)が「丸子多摩川駅」(現「多摩川駅」)から「渋谷駅」まで延伸され、現在の「自由が丘駅」東横線ホームより北寄りに「九品仏駅」が開設された。翌年から目黒蒲田電鉄(現・東急)二子玉川線(のちの大井町線)の周辺の区間も建設が進められ、両線が交差する部分では、東京横浜電鉄の高架化工事が行われた。写真は1928(昭和3)年の「九品仏駅改良工事落成記念」の写真。1929(昭和4)年、この交差付近に駅が移転・改称し「自由ヶ丘駅」が誕生した。【画像は1928(昭和3)年】

写真は現在の「自由が丘駅」付近。左の踏切が東急大井町線、右奥の高架上が東急東横線。右の通りは「マリクレールストリート」。 MAP __(撮影地点)

写真は1953(昭和28)年撮影の大井町線ホーム。上に東横線が通る。【画像は1953(昭和28)年】

写真は現在の大井町線ホーム。1966(昭和41)年に「自由ヶ丘駅」から「自由が丘駅」へ改称し現在に至っている。 MAP __(撮影地点)

「自由ヶ丘学園」と「トモヱ学園」 MAP __

1928(昭和3)年、教育者の手塚岸衛氏が自由主義教育を目標に掲げ、荏原郡碑衾町に設立した「自由ヶ丘学園」。地主で「衾西部耕地整理組合」の組合長でもあった栗山久次郎氏の協力もあり、この場所が選ばれた。手塚岸衛氏が1936(昭和11)年に亡くなると、石井漠氏の勧めから、小林宗作氏が1937(昭和12)年に「自由ヶ丘学園」の小学校と幼稚園を引き継ぐ形で「トモヱ学園」を開設、「リトミックによる創造教育」を実践した。「トモヱ学園」は同校出身の黒柳徹子氏著の『窓ぎわのトットちゃん』(1981(昭和56)年出版)によって広く知られるようになった。「東京横浜電鉄」の廃車となった電車を譲り受け教室として使用していた時期があり(写真)、このことは『窓ぎわのトットちゃん』でも描かれている。【画像は昭和戦中期】

「トモヱ学園」の校舎は1945(昭和20)年の「東京大空襲」により焼失、戦後に幼稚園のみ再建され、1963(昭和38)年、小林宗作氏の死去に伴い閉園となった。近年、跡地はスーパーマーケットとなり、1988(昭和63)年、建物の前に「自由ヶ丘 自由と創造の我が母港」と記された「自由ヶ丘学園小学校」「トモヱ学園小学校」の記念碑が設置された。写真は2019(令和元)年の撮影。2021(令和3)年より、スーパーマーケットの建て替え工事のため、記念碑は一時撤去され「自由が丘商店街振興組合」が保管しており、同所に2023年開業予定の「イオンモール」による新商業施設の敷地内への再設置が検討されている。【画像は2019(令和元)年】

歴史を引き継ぐ「自由ヶ丘学園高等学校」 MAP __

手塚岸衛氏は1930(昭和5)年、「自由ヶ丘学園」に中学校(旧制)を設立した。校地は現在の「自由ヶ丘学園高等学校」の場所で、小学校・幼稚園があった場所より500mほど北になる。中学校は1935(昭和10)年に教育者の藤田喜作氏が引き継ぎ、質実剛健の野草的教育を目標とする学校となった。写真は昭和初期の様子。戦後の1948(昭和23)年、教育制度改革により、校名を「自由ヶ丘学園中学校高等学校」へ改称、1959(昭和34)年に中学校を休校とし、現在の「自由ヶ丘学園高等学校」となった。【画像は昭和初期】

現在の「自由ヶ丘学園高等学校」。充実した施設の私立男子高等学校で、近年はレスリング部の強豪校としても知られている。学校の前の通り名は「学園通り」と呼ばれるが、この名称は昭和初期の地図にも記載されている歴史あるもの。


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