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『モガ』『モボ』と『銀ぶら』

明治末期に始まった銀座でのカフェの文化は、日本の喫茶文化として発展するとともに、銀座が「夜の街」ともなるきっかけとなった。大正末期から昭和初期にかけては『モガ』『モボ』と呼ばれる流行の先端を行く若者も街に現れ、また、銀座には多くの人々が訪れ『銀ぶら』を楽しむようになった。ここでは大正期から昭和初期にかけての銀座の文化を紹介する。


銀座で始まったカフェ

1911(明治44)年、銀座には「カフェープランタン」「カフェーライオン」「カフェーパウリスタ」と、カフェの開店が相次いだ。「カフェープランタン」は日本初のカフェといわれ、フランスのカフェに倣い美術家や文学者の社交の場として開業、当初は会員も募り、洋画家の黒田清輝、岸田劉生、作家の森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎などの文化人が名を連ねた。写真は「カフェープランタン」の内部の様子。「カフェーライオン」は「精養軒」が経営、「カフェーパウリスタ」はブラジル産の珈琲を提供した。【画像は大正期】

「カフェープランタン」があった場所は、現在の銀座八丁目6番付近となる。 MAP __

ネオン輝く夜の街となった銀座

「関東大震災」後頃から、女給(ホステス)が接待する形態のカフェ(以下「カフェー」)も誕生(のちにキャバレーなどに発展する)。昭和に入ると大阪資本の大型「カフェー」が銀座に進出、写真のような派手なネオンが輝くようになった。写真には「銀座会館」「クロネコ」「美人座」などの店名が見える。「銀座会館」は大阪の「カフェー」で成功した榎本正が1930(昭和5)年、東京・銀座に進出した最初の店で、その後、銀座でもいくつかの「カフェー」を開店している。1930(昭和5)年頃には銀座に約140軒の「カフェー」があり、うち女給が50人以上の大型店も10軒以上あったという。一方、銀座の純粋な喫茶店は、1935(昭和10)年を境に「純喫茶」であることを鮮明に打ち出すようになった。「カフェープランタン」は、この年に「カフェー」の文字を排し、「茶房 ル・プランタン」としている。【画像は昭和戦前期】

写真はかつて「銀座会館」「クロネコ」などがあったあたり。戦前期の大型の「カフェー」は銀座一・二丁目に多かった。 MAP __

『モガ』と『モボ』と銀座の老舗

「大正デモクラシー」以降、伝統にとらわれない若者が現れるようになった。『モダンガール(モガ)』は、1923(大正12)年、ジャーナリスト・北澤秀一(ひでいち)が新聞に掲載した論説が初出といわれる言葉。当時、新しい職業であったタイピスト、デパートの店員などの女性たち(「職業婦人」と呼ばれた)が、洋装・ショートカットなど流行の先端を行くファッションで銀座をはじめとする都会を闊歩した。また、同様に「山高帽子」「ロイド眼鏡」など、当時の現代的なファッションの男性は『モダンボーイ(モボ)』と呼ばれるようになり、『モガ』『モボ』の言葉とイメージは大衆メディアや広告で全国に広まった。写真は昭和初期の銀座を行く『モガ』で、左奥に見えるビルが書店の「教文館」。このビルはアントニン・レーモンドの設計、1933(昭和8)年の竣工で、現在も使用されている。この写真では明確ではないが、「教文館」の手前には「御木本真珠店」「山野楽器店」「木村屋」などの店舗が並んでいる。【画像は昭和初期】

写真は、現在の「銀座四丁目交差点」。「教文館」は1885(明治18)年に横浜に創業したキリスト教を基盤とする書店・出版社で、築地への移転を経て1891(明治24)年より銀座へ出店、3度の移転ののち、1906(明治39)年に現在地に移転している。「御木本真珠店」は1899(明治32)年に銀座へ出店、1906(明治39)年に現在地へ移転、現「ミキモト銀座4丁目本店」。「山野楽器店」は1907(明治40)年、銀座四丁目に開店した「松本楽器販売店」を、1915(大正4)年に事業継承し現在に至っている。「銀座木村屋」は1869(明治2)年に「文英堂」として創業し、翌年現在の「GINZA PLACE」付近に移転し「木村屋」に改称した。1874(明治7)年に現在の店舗の向かい側付近に移転。1927(昭和2)年に現在地で営業を開始し、1930(昭和5)年に「木村屋總本店」となり、本店の運営は2009 (平成21) 年から「銀座木村家」が行っている。 MAP __(教文館)


『銀ぶら』の意味

『銀ぶら』の意味を辞書で調べると『東京の銀座通りをぶらぶら散歩すること』(以下『銀座を散歩』)とあり一般的な説となっている。一方、『銀座でブラジルコーヒーを飲むこと』(以下『銀座でブラジルコーヒー』)とする説もあり、こちらは意外性があり、テレビなどで紹介されることも多い。

「カフェーパウリスタ」の絵葉書

「カフェーパウリスタ」は日本人のブラジルへの移民事業をとりまとめた水野龍が開店したカフェーで、ブラジル産の珈琲を提供し、その普及にも努めた。画像は大正期の「カフェーパウリスタ」の絵葉書。 MAP __

「関東大震災」の翌年、1924(大正13)年出版の『新東京繁昌記』(水島爾保布著)では、『「銀ぶら」といふ言葉は、其最初三田の学生の間で唱へられたものだともいふし、また玄文社の某君の偶語に出たものだともいふ。』とあり、この時期にはすでに言葉の由来は不明となっていた(三田は「慶應大学」、「玄文社」は出版社名)。同書では『銀ぶら』は『銀座を散歩』説で、その後の論を展開している。

大正初期に「慶應大学」の学生であった作家の小島政二郎は、私小説『甘肌』(1954(昭和29)年出版)の中に主人公の回想として、『同窓に成毛五十六と云う詩人がいた。授業が終ると、三田の通りから芝公園を抜け、日蔭町の狭い通りをブラブラ歩いて、芝口から新橋を渡って、銀座へ出る。これを銀ブラと云い出したのは、成毛五十六の造語であった。』(日蔭町は現在の「新橋駅」東側付近)と著している。フィクションの可能性もあるが、こちらの記述では、『銀座を散歩』説、『銀座でブラジルコーヒー』説どちらでもなく『ブラブラ歩いて銀座へ行くこと』(以下『歩いて銀座へ』)となる。

『甘肌』には『今の交詢社のところに、(中略)カッフェ・パウリスタと云う、五銭でブラジルのコーヒーを飲ます木造二階建の洋館があった。三田からここまで歩いて来て、コーヒーを一杯飲む、それが何よりの楽しみだった』という記述もあり、『歩いて銀座へ』と『銀座でブラジルコーヒー』の二つの行為を掛けて『銀ぶら』と呼んでいた可能性も考えられる。

近年、SNSなどで『銀ぶら』の由来について論争になることもある。前出の『新東京繁昌記』では『銀ぶら』の言葉の由来について、『文献の徴すべき何ものもないが、これでも十数年ないし数十年の後にはいろんな内容いろんな伝説なども附会され』と予測し、さらには『随筆家の飯の種』や『考証家の材料』、『社会学者の世渡りの資料』になるだろうとも予測しており、大正末期の時点で、まさに現在の状況を言い当てている。



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