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「関東大震災」と復興

1923(大正12)年9月1日に発生した「関東大震災」(以下震災)により、銀座の煉瓦街は倒壊と火災によりほぼ全滅となった。政府は、震災の翌日より復興への議論を開始、9月27日に「帝都復興院」を設立した。各所から優れた技術者が集められ、総裁には内務大臣の後藤新平(同年4月まで東京市長を務めていた)が就任、復興計画が策定された。その後、「内務省」の外局として「復興局」が開設され「帝都復興事業」(以下復興事業)が始まり、1930(昭和5)年に概ね完了となった。復興事業では、土地区画整理、幹線道路の新設・拡張、河川・運河の改修、架橋などが行われ、東京の市街地は大改造され新しい街並みが誕生した。銀座・京橋においては、「晴海通り」の拡幅、「昭和通り」の建設や「震災復興小学校」(以下復興小学校)の建設、「震災復興橋梁」の架橋などの復興事業が行われたほか、「銀座通り」沿道の商店も精力的に復興に取り組み賑わいを取り戻した。


「関東大震災」時の銀座・京橋

震災時の銀座の様子。現在の「銀座四丁目交差点」付近から築地方面が撮影されており、右上の大きな建物が「歌舞伎座」となる。 MAP __(撮影地点)【画像は1923(大正12)年】

震災時の「京橋」付近の様子。「第一相互館」から銀座方面が撮影されており、右下の橋が「京橋」、右上の鉄骨組みの建物は「徴兵保険株式会社」(のちの「東邦生命」)が建設中だった「銀座ビルディング」で、震災前年に「松屋鶴屋呉服店」(現「松屋銀座」)が借りる契約をしていた。中央斜めに見える川は「三十間堀川」、左上奥の建物が「歌舞伎座」。 MAP __(撮影地点)【画像は1923(大正12)年】

「震災復興小学校」と「震災復興小公園」

「関東大震災」では多くの学校も罹災したため、東京市は復興事業の中で、1924(大正13)年度から1930(昭和5)年度の7年間に、117校もの復興小学校を建設した。校舎は耐震・耐火性の強い鉄筋コンクリート造りで、デザインは時代の先端とされたドイツ表現主義の影響を受けたものが多かった。また、復興小学校のうち52校には「震災復興小公園」(以下復興小公園)も併設され、防災の拠点としての役割も担った。旧京橋区には13校の復興小学校が建設された。写真は1909(明治42)年創立の「東京市京橋尋常小学校」。この復興小学校の建物は1929(昭和4)年に竣工した。隣接して復興小公園の「京橋公園」も設置された。【画像は1932(昭和7)年頃】

「東京市京橋尋常小学校」は戦後に「中央区立京橋小学校」となり、1992(平成4)年に統合され廃校となるまで復興小学校として建設された校舎が使用されていた。校舎があった場所には1999(平成11)年に「京橋プラザ」が開設されたが、「京橋公園」は現在も残っている。写真は「京橋公園」で、奥の建物が「京橋プラザ」。 MAP __

現在の「中央区立泰明小学校」は1878(明治11)年の創立で、1907(明治40)年から「東京市泰明尋常小学校」となった。写真は復興小学校として、1929(昭和4)年に竣工した校舎の講堂部分。写真の手前は震災前の1914(大正3)年に設置された「数寄屋橋公園」で、復興小学校に隣接するが復興小公園ではない。当初、復興小公園として「泰明公園」の設置も検討されたが、既に「数寄屋橋公園」が小学校に隣接していたため設置不要と判断された。【画像は1932(昭和7)年頃】

「東京市泰明尋常小学校」は戦後に「中央区立泰明小学校」となり、現在も復興小学校として建設された校舎が使用されている。1999(平成11)年に「東京都選定歴史的建造物」に選定、2008(平成20)年度に「経済産業省」の「近代化産業遺産」に認定された。写真は「数寄屋橋公園」から見た「中央区立泰明小学校」。手前のモニュメントは、岡本太郎作の『若い時計台』で、1966(昭和41)年に制作され、1968(昭和43)年に設置された。当初は「晴海通り」に近い場所に設置されていたが、2016(平成28)年の公園のリニューアルに伴い、現在地となる「中央区立泰明小学校」のそばに移されている。 MAP __

「昭和通り」の開通 MAP __

「昭和通り」は復興事業により、新橋から上野にかけて新設された幹線道路。後藤新平の原案では幅員は108mもあり、その後計画が縮小されたものの、44mもの幅員で植栽のある広い中央分離帯を持つ通りとして1928(昭和3)年に完成した。写真は「昭和通り」と「晴海通り」の交差点(現在の「三原橋交差点」)付近で北側を望んでいる。右端のビルの右側が「歌舞伎座」となる。【画像は昭和戦前期】

戦中から戦後しばらくの間、食糧増産のため中央分離帯は麦などが植えられ畑として利用された。昭和30年代後半に「東京オリンピック」を迎えるにあたってアンダーパスが造られており、広い中央分離帯はなくなっている。

銀座・京橋の震災復興建築

震災後、銀座の復興へのスタートは早く、「銀座通り」沿いの商店はバラックを建てて、震災から2ヶ月後の11月にそろって開店させた。その後、復興建築のビルも建設されるようになり、銀座の都市景観は整っていった。写真は1929(昭和4)年に建設された「交詢ビルディング」。
MAP __【画像は昭和初期】

「交詢ビルディング」は2004(平成16)年に建て替えられたが、ビルの正面(南面)にファサード(旧ビルの正面デザイン)が保存されている。

「交詢社」は福沢諭吉が1880(明治13)年に創立した国内最初の本格的社交クラブで、メンバーは「慶應義塾」の卒業生が中心であった。写真は改築工事により1935(昭和10)年に「交詢ビルディング」の5階に開業した室内ゴルフ練習場。当時、室内の本格的なゴルフ練習場はほとんどなく、草分け的な存在であった。【画像は昭和戦前期】

京橋の「明治屋京橋ビル」は震災復興期の1933(昭和8)年に建築された。民間としては初めて、ビルの地下部分と地下鉄駅を連結した建物でもある。「明治屋」は1885(明治18)年の創業で、国内外の食品を扱い発展した会社。 MAP __【画像は1935(昭和10)年頃】

現在の「明治屋京橋ビル」。再開発に併せ外壁及び室内の一部を保存した上で改修が行われ、2015(平成27)年に新装オープン、翌年、再開発エリア全体が「京橋エドグラン」としてグランドオープンした。このほか、銀座・京橋エリア内で震災復興期に建築され現存するビルは「服部時計店(現・和光本館)」「教文館ビル」「ヨネイビルディング」などがある。


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