出産から墓場まで
ゾウの幸せな一生のための楽園を作る
千葉県にある私営の動物園「市原ぞうの国」には、ゾウ13頭のほか、約100種類400頭羽の動物が暮らす。
日本国内で出産したゾウは2020年9月現在13頭で、そのうち今生きているゾウ8頭中5頭が「市原ぞうの国」で産まれたという。ゾウを含め、すべての動物を愛する園長の坂本さんに、思いを伺った。
圧巻!パフォーマンスをこなすゾウの群れ
毎日1時になると、「市原ぞうの国」では、ゾウのパフォーマンスの時間が始まる。ぞう舎からゾウ12頭が、広場まで行進をしていく。園の中をゆったりゆったりと歩いていく様は、柵越しに見る姿とまた違い、圧巻だ。観客が思わず手をふれば、鼻を高々と上げて挨拶をしてくれるゾウもいる。平日でも通り道には観客がいっぱいで、間近に見るゾウの姿に歓声があがる。
広場につくと、ゾウ達は、楽しくパフォーマンスを見せてくれる。
色とりどりの輪を鼻にかけ、くるくるとまわしたり、軽快な音楽が流れると、思い思いに身体をゆすったり、頭を左右にふるゾウもいれば、足をたんたんと踏みしめたり、「見てちょうだい」と言わんばかりにブルンブルンと鼻をまわしているゾウもいる。母ゾウのそばにいる子ゾウは、飽きてきたのかごろんごろんと転がって、砂まみれになってしまった。
どのゾウも自由で、その顔はにこやかに笑っているかのようだ。楽しくてたまらないといった様子に、観ている観客の顔もまたほころぶ。
踊ったり、お絵かきをしたり、ぬいぐるみを観客に渡したり、観客を背にのせたりするゾウを見ると、その知能の高さにも驚かされる。
「イヌやウシ、ウマと同じですよ。動物の日常生活の中で行う動作を中心にパフォーマンスを教える。うまくできれば誉めてやる。それだけ」。それがこの園の園長である坂本小百合さんの考える、シンプルなパフォーマンスの仕込み方だ。
かつてサーカスでやっていたように、火の輪をくぐり抜けさせたり、むりな体勢で逆立ちをさせる、二本足で歩かせる、ロープを渡らせるといった通常の動物の生活の中であり得ないことはさせない。無理やり叱って、パフォーマンスを強要することもない。
「怒ってばかりでは、育ちませんよ。子どももそうでしょ。ね。今だから言える言葉ですけどね」といって、坂本さんは高らかに笑った。「自分が一番大切だから怒っちゃう。子どもって親のわがままで怒られちゃうでしょ。親がこうしたいのに、こうならないから怒っちゃうのよね」と坂本さん。5人の子どもたちを育て、何百もの動物を飼育し、何人ものスタッフや外国人スタッフを抱えて奮闘してきた坂本さんが、到達した思いだろうか。
華やかなモデルから転身。動物プロダクションへ
坂本さんは、アメリカ人の父と、日本人の母を持ち、10代のころから多くの婦人誌の表紙を飾るなど、モデルとして活躍をしていた。モデル仲間であった男性と結婚し、2人の子どもをもうけるものの離婚、その後、動物プロダクションを経営する男性と再婚。さらには動物園の園長にまでなってしまう。華やかな芸能界からの見事な転身に驚いた人も多いかもしれない。
しかし、坂本さんは、小さいときから動物好きで、自宅から子どもの足で40分程度の場所にあった横浜の野毛山動物園には、よく遊びに行っていたというから、動物プロダクションをサポートするのもごく自然な成行きだったのだろう。
動物プロダクションとは、多くの動物を飼育し、メディアやイベントの要請に従って動物を貸し出し、クライアントの要求に従ってパフォーマンスや、演技をさせることで利益を得る。
坂本さんは、動物と心をひとつにしてパフォーマンスを見せ、人に喜んでもらう、その楽しさに夢中になった。
ゾウと関わる直接のきっかけとなったのは、1983年のテレビのバラエティー番組にゾウを毎週レギュラー出演させてくれないかと打診されたことだった。
それまでも単発でのゾウへの出演依頼はあったので、その都度サーカスから借りるなど対応していたが、毎週レギュラーとなるとそういうわけにもいかず、購入を決意。その時に和歌山県のアドベンチャーワールドから購入をしたのが、今も「市原ぞうの国」でゾウたちのリーダー的存在である雌ゾウミッキーだった。
その後、「子象物語―地上に降りた天使」(東宝1986年公開)という映画に出演のために、さらに子ゾウを2頭、タイから購入。この映画は大評判となった。また後楽園ドームで舞台「アイーダ」にゾウ、ラクダ、トラ、などを出演させるなど、このプロダクションは多くの話題を世間に提供した。「子象物語」撮影後に残念ながら1頭は死んでしまうが、その後、ランディというゾウをサーカスから引き取る。
ランディを特にこよなく愛したのは、坂本さんの長男の哲夢さんだ。ランディが来た時にすぐに心を通わせることのできた哲夢さんは、当時小学校6年生。中学に行く前にタイの「チェンダーオ ゾウ訓練センター」に3週間の短期留学を果たし、一時帰国後、再びタイに渡り、同センターで本格的にゾウとのパフォーマンスを行うための修業をする。
修業から戻ってきたとき、哲夢さんは16歳。その2年後正式に動物プロダクションに就職した哲夢さんは、ゾウやほかの動物と心を通わすことができ、さらに、タイ語も堪能だったため、日本人スタッフとタイ人たちとのコミュニケーションにも役立った。まさに後年の「市原ぞうの国」という未来をしょって立つべき逸材だった。しかし、1992年11月に突然の交通事故によって、わずか20年の生涯は永遠に閉ざされることとなった。
本格的に動物園事業に乗りだす
坂本さんは、哲夢さんのこともあってか、次第に、夫との間に仕事の上でも夫婦としても距離を感じるようになっていた。夫がメディアの仕事に興味が向く一方、坂本さんは動物園事業に本格的に興味を持ち始めていた。
「ワンテイクで犬が、ベッドから出て、新聞をとってきて主人の枕元に渡し、ほっぺたをペロンと舐めれば拍手喝采。そんなパフォーマンスが成功すれば、楽しかった。でもそういう時代は移り変わり、CGの登場となりました。ワンシーンだけ撮れば、あとはCGが作ってしまうようになって、すごくつまらなくなっちゃって。やはり、私は生の動物のにおい、感覚、雰囲気、それを伝える仕事をしたいと思ったんです」
1998年に協議離婚。
プロダクションの飼育場としてオープンした「山小川ファーム」は1996年に「市原ぞうの国」と改称していたが、1998年には坂本さんが代表取締役となり、夫は別に動物プロダクションを設立。
坂本さんは子ども達を育てながら、いよいよ動物園事業に本腰を入れるようになった。
コンセプトは「人間と動物が共存する動物園」
「私は間接飼育には否定的です」と坂本さんはおもむろに語った。
多くの動物園で、現在、ゾウや猛獣に関して、直接触れることなく飼育をする間接飼育が導入されているという。しかし、坂本さんは否定的だ。危険だからというのが、間接飼育の主な理由でもある。しかし、問題は別にあると坂本さんは言う。
「ドアの締め忘れや、ふとした慣れから事故が起こることが多いんです」
自分は大丈夫といった過信や、うっかりドアの締め忘れなどが事故の原因であることが多く、それが直接飼育の否定にはつながらないと坂本さんは考えている。
触って声をかけて、愛情を注ぎ、十分に信頼関係を構築して育てた上で、安全には常に心を配る。動物たちが驚き、パニックを起こすようなことがあれば、人間を攻撃しないとも限らない。そうならないためにも、精神を安定させ、平和な環境を整えてやることが必要なのだ。
亡くなった哲夢さんが、常に言っていたのが「日本中のゾウを幸せにしたい」ということだった。家族と共に暮し、人間と共存する幸せなゾウの国をつくること。それが、哲夢さんの夢であり、坂本さんの目標ともなった。
ゾウという動物は、オスは単独で過ごし、雌はリーダーを中心にして家族のように暮す。そういった自然の習性を壊さないように、安心してゾウが子作りをし、子育てをする環境に30年近くかけて、ようやく到達できたと坂本さんは感じている。
現在、ゾウだけではなく、「市原ぞうの国」には多くの動物がいる。坂本さんが今はまっているのは、ウサギとガチョウだそうだ。「市原ぞうの国」の隣にある「サユリワールド」には、いわば坂本さんの家の庭。キリンをはじめとしてたくさんの動物が放し飼いになって、自由を満喫している。
「キリンはオシャレでしょ。ウサギは賢いわよ。でも一番好きなのはネコかしら」と笑う坂本さんは、現代のドリトル先生のよう。
さらに、年老いたゾウがのびのびと余生を過ごせるように、「勝浦ぞうの楽園」も作った。そこにはゾウの墓場まで用意し、幸せなゾウの一生のために貢献している。坂本さんも1週間に1度ほど、勝浦で海を見ながら過ごす日が、何よりのリフレッシュになるとか。
夢を追いかける
最愛の息子、哲夢さんは「日本中の象を幸せにしたい」という夢を持ちながら、志半ばで亡くなった。しかしその夢は小百合さんにしっかりバトンタッチされた。坂本さんは、事業継続の苦しさに、時には初心を忘れたり、くじけそうになることがあった。けれども哲夢さんに背中を押され、見守られ、その夢を常に心の灯台として掲げつつ、走りつづけている。
「市原ぞうの国」は2021年3月19日にリニューアルオープンする。目玉の一つは、エレファントスプラッシュというゾウの水浴び場だ。水浴びが大好きなゾウたちが喜ぶ姿とそれを見る観客のためのアイデアは、まだまだ尽きることがないようだ。
「あと4ヶ月あまり。どうやって自分の体力を維持して、命令をきちっと下し、ジャッジをしていくか。倒れないようにしなくちゃね」と言葉も力強い。
この日、広場に坂本さんの姿があった。ランディの背中にまたがるのは、数年ぶりだという。「昨日からランディは『え。ママが乗るの?』って緊張していたのよ」と屈託がない。いよいよランディの背中にまたがると、ランディは「危ないよ」とでもいうように、そっと耳で坂本さんの足を支えた。30年を超える年月を共にした揺るがない絆がそこにはあった。
(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)