文楽人形遣い「吉田玉助」の名を受け継ぎ、
後世へ伝えていく
2018年4月に「五代目吉田玉助」を襲名する文楽の人形遣い、吉田幸助。世襲制ではない文楽の世界にあって、三代目吉田玉助の名を継ぐ幸助は、玉助の孫にあたるいわばサラブレッドだ。中学生で文楽の世界に飛び込み、39年目。襲名にあたっての思いを伺った。
生まれたときから人形遣いの世界に浸る
文楽の世界は、歌舞伎と違って世襲制ではない。現在の文楽界に属する半分以上の技芸員が、一般家庭の生まれだそうだ。その中にあって2018年に「吉田玉助」という人形遣いの大きな名前を継ぐのが、吉田幸助である。幸助は、三代目吉田玉助の孫。幸助が生まれたのは、玉助が亡くなった翌年のことだった。
幸助の文楽にかかわる最初の記憶は、香りにまつわる。人形遣いの父・二代目吉田玉幸の舞台を観るために、母親に連れられて今はもうない大阪の「朝日座」をよく訪れた。まだ小学校へ入る前の記憶である。楽屋に行くとぷーんと香るのが、膠(にかわ)を煮詰めた独特のにおいだった。
膠は、動物の皮・骨・腱などを煮詰めて抽出したもの。文楽では、人形の役に応じて塗りなおす顔料として、貝殻を粉末にしたものに膠を練った塗料(=胡粉:ごふん)が使われている。
昼なお暗い楽屋には、出番を待つたくさんの人形のかしら。上演前の楽屋のあわただしさ、さんざめき。たばこの香り。大人同士の会話、そして幸助をからかう声。楽屋は、幼い幸助少年には面白いおもちゃ箱のようなものだった。楽屋をのぞく。舞台を観る。家に帰れば、おもちゃのロボットで人形遣いの真似をして遊ぶ。そんな日々だった。
幸助にとって文楽の世界は、飽きることなく触れられ親しめる、常に身近なものだった。人形遣いの家に生まれたのだから当たり前だろうと思われるかもしれないが、実はそういうものでもない。実際、幸助の兄はまったく文楽に興味を持たず、その道に進むことはなかった。
楽屋でかわいがられ、家でも人形で遊び、「この子は本当に人形が好きなんだね」と周りにも認識されてはいた。しかし、中学2年のときに「文楽の道に進みたい」と親に言うと、大反対されたという。
「お前のような甘ちゃんが、この世界でやっていけるはずあらへん! わがままや!」と父は激怒。その道の厳しさを誰よりも知っていたからだろう。
しかし、幸助はひるむことなく食い下がり、父のもとにようやく弟子入りを許され、厳しい修業を送ることとなる。
30年の修業を経てやっと一人前になる人形遣い
文楽は江戸時代に成立した演芸である。人物のセリフや心境、ストーリーの状況を表現する「太夫」の語り、「三味線」の音楽、そして「人形」。この3つが一体となって、ひとつのパフォーマンスを形作っていく。
人形は、一体を三人で操る。
人形のかしら(頭の部分)と右手を遣う「主遣い(おもづかい)」。
人形の左手と小道具の出し入れをする「左遣い」。
人形の両足を遣う「足遣い」。
三人で操っていても一体の人形が流れるような自然な動きになるのは、主遣いから出す“無言の合図”によるものだ。
文楽の人形遣いは、足遣いから修業をはじめて10年、左遣いを10年、その後やっと主遣いを任されるようになる。幸助も、もちろん特別扱いがあるわけではなく、足遣いから修業に入った。
「毎日、家では鴨居から人形の足を吊って足遣いの練習をしていましたね。中学3年で文楽協会の研究生となってからも、ずっと父には怒られっぱなし。僕ら若手は一番最後まで劇場に残りますから、帰りが遅い。家に着くとすでに父はウイスキーを飲んでるから目がすわっているわけですよ(笑)。1時間ぐらい説教。毎日ね。晩御飯の時間もずっと説教でした」
それでも、この世界でやって行こうと決めた以上、やめようという気になったことはない。
中学生といえば、通常であれば反抗期真っ盛りといったところだが、その頃はすでに人形遣いを目指していた幸助にとって、父親は師匠であり尊敬すべき存在。どれだけ叱られても、反抗などは思いもよらない。「ほかに道はない。自分の決めた道だ」と必死に喰らいつくのみだった。
ただ意味もわからず父に叱られっぱなしだったものの、今ではその教えがどれほど大切だったか、痛感しているという。特に、体に叩き込まれるほど言われたのは「基本を大切にする」ということだった。
「10キロの人形を宙に持ち、30分静止」の難しさ
人形遣いにとっての基本はまず「人形を常に正しい姿勢で持っていられるか」ということだ。
何度同じ姿勢をとっても、正しい姿勢になるか。角度は微妙に違っていないか。動きがぶれていないか。長時間同じ姿勢を維持できるか。そういったことをクリアするために必要なのは、体幹の強さと体で覚えるしかない「肌感覚」だ。
人形は大きいもので150センチ、重量が10キロ以上になるものもある。それらを片手で持ち、さらに動かすためには、しっかりとした腰や腕で支える必要がある。だから、股割の姿勢で30分以上静止するといった鍛錬も中学生の頃から続けてきた。役柄によってはかなり長い間、動かないようなものもある。観客からすれば「じっとしていて楽そう」と思われるが、10キロ近い人形を宙に浮いた状態で長時間支えるのは、見た目ほど楽ではない。止まっていても動いていても、軸がぶれてはすべてが台無しになってしまうのだ。
父・玉幸が幸助にひたすら伝えたかったことは、人形を扱う上でのテクニックではなかった。「動くべきときに正しく動く」「動かないときは決して動かない」という「基本」だった。型がきれいに決まるか、感情表現はできているか、すべてはその先の話なのだという。
さらに「癖と個性は違うんです」と幸助は言う。名人と言われる人形遣いにはそれなりの「個性」が光るものだ。しかし、それは「癖」とは違うものである。
誰にでもある「演技の癖」は、極力取り去ってまっさらの状態にすることが肝要だという。幸助は自分の癖をなくすために、今でも自分の演じている舞台を何度もDVDで見直して修正をする。
優れた人形遣いに、癖はない。癖のない動きに魂が宿ったときに、人形遣いは個性の光る名人と言われる。そうなるには、30年40年、もっとかかるともいわれている。
観客は、最初のうちこそ人形遣いの顔が邪魔に見えることもあるが、芝居の世界に入り込んでくると、次第に人形がひとりでに動き出してくるように見え、ほとんど人形遣いの存在は気にならなくなっていく。義太夫に乗って、いつの間にか人形自身が動き、しゃべり、笑い、泣き、踊るのだ。
早くても遅くても成り立たない。
襲名のタイミングはめぐりあわせ
襲名の話に戻ろう。なぜ今、襲名なのだろうか。
幸助が襲名について考え始めたのは、ここ2、3年のことだという。
文楽の襲名はタイミングが難しい。若いうちに襲名したいと申し出たところで、誰も賛同してくれない。芸を突き詰めてから、と襲名を先送りにすれば、その名を広めることなく終わってしまう。四代目玉助を継ぐべき父・玉幸が、襲名を希望しながら叶わず亡くなってしまったのがその例だ。
「自分はまだ50歳を過ぎたばかり。玉助という大きな名前を名乗るには、まだ早すぎると思っています」と幸助は控えめに語る。「まだまだ自分は肚が薄い」と表現する。
しかし、50歳を過ぎ、父が亡くなって10年たった今というタイミングが、一番いいめぐり合わせの時期ではないか。玉助の名前を永く使って、多くの人に知ってもらい愛されてもらうことが、文楽界全体への恩返しにもなる。
そう幸助は感じ、簑助師匠に襲名の相談となる手紙を書いたのが2年前のことだ。
「ほどなく簑助師匠から京都の料亭に呼ばれましてね。反対されるかと冷や冷やしましたが『おめでとう』と言われ、ほっとしました」
文楽界全体も誰も異議を唱えることなく、無事承諾を得ることができた。
祖父の大きな名前を53年ぶりに継ぐこととなった幸助は、四代目玉助を生前継ぐことができなかった父に四代目を追贈し、自身は五代目を名乗ることとした。
文楽研究家は、五代目吉田玉助襲名記念の冊子に寄せた文章の中で「幸助の亡父に対する思い遣りに感銘する」と書いている。
襲名披露は『本朝廿四孝・勘助住家(ほんちょうにじゅうしこう・かんすけすみか)』の山本勘助役に決まった。これは、三代目玉助が襲名のときに演じたもので、幸助自身も演じたいとひそかに考えていたものだ。幸い、簑助師匠からも同じ演目を提示されたという。もとより異論はない。「せこせこしない大きい山本勘助にしたい」と、気合も入った。
歴史の歯車のひとつとして、
きちんと次世代にバトンを渡したい
幸助は、どんな玉助となっていきたいのだろうか。
ひとつには、「きちんと伝える」という気持ちがある。
「長い文楽の歴史があります。その中のほんの小さな一つの歯車として、ちゃんとした伝統を次世代に伝えていきたいのです。その使命感です」
豪快な立ち役として活躍した三代目玉助、そして父・玉幸。その血を受け継いだか、幸助自身も長身を生かして、立ち役がよく似合う。
足遣い・左遣いの頃は、長身で腰をかがめたり小さくなったりしなければいけないため、腰を痛めたりしたこともあったそうだ。主遣いとなってからは、その身長と長い手足を存分に生かした大きな演技が注目を浴びる。
2017年12月の国立劇場小劇場では、『ひらかな盛衰記』で松右衛門、実は木曽義仲家臣樋口次郎兼光という大きなお役を演じた。樋口次郎兼光は、今は、義経に近づくために船頭に身をやつしているという設定の役だ。役柄としては実直な船頭、しかしその実は樋口次郎兼光である、という武士の品格と、堂々とした雄姿が求められる。そして、主君の遺児を守る決意、身代わりとなった子を思う哀しさ、男気、思いやり、裏切られた不信感、遺児を守ることのできた喜び、など多くの感情表現に加え、敵に囲まれ大立ち回りもするという難しいお役であったが、指の先一つひとつにまで神経の行き届いた、堂々とした松右衛門ぶりだった。
他分野の芸術を取り入れ、文楽ファンを増やしていく
なりたい“玉助像”としてもうひとつは「幅を広げたい」という気持ちがある。立ち役だけではなく、若い二枚目や、時には色気のあるお役もどんどんこなしていきたい。
また、自分の芸の幅を広げるだけではなく、文楽ファンを増やすための地道な活動も継続している。
世界ボーカロイド大会に出て、初音ミクの曲に乗せて人形を操る(2013年)、お寺で初心者向けの文楽講座を行う(2016年)など、精力的な活動は枚挙にいとまがない。さらに2015年から続く、大阪の放送局5局が集結して文楽を後押しするイベント『うめだ文楽』は、幸助がトップとなって人を集めて始めたものだ。4回目となる2018年も、襲名前の2月に開催予定である。
たまには、ビッグスクーターを駆り、気分転換。歌舞伎や落語はもちろん、現代劇やクラシック音楽を聞き、刺激を受けることも多い。エモーショナルな部分をひたすら体に打ち込み、モチベーションを上げていく。
「特にラフマニノフのピアノ協奏曲第2番などを聞くと、気分があがりますね」
52歳という年での襲名。目の前の道は今までよりも一層険しいが、その先に何が見えるのか。幸助改め「五代目玉助」は、満を持してその坂を上ろうとしている。
(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)