定年後の地方移住。
絵本と、コーヒーのある暮らし

リタイア後は地方に移住して暮らしてみたい。そんな夢を持つ人は少なくないだろう。今回は、都会で住み慣れた家を売却して移住し、店を出し、夢をさらに追いかける素敵なご夫婦にご登場願った。

本屋だけでもなく、喫茶店でもない。
「おひさま堂」とは?

東北自動車道・那須インターから車で20分ほど。小道を分け入るとやがて視界が開け、田んぼが広がる。田んぼを見渡す砂利道を少し進むと「おひさま堂」はある。

かわいらしいカエルやお地蔵さんのオブジェに誘われて階段を上がり、扉を開けると、目の前には大きな薪ストーブ。その周りには、古今東西の良質の絵本がたくさん。古い本の香りがそこはかとなく、心地よい。

吹き抜けの天井で開放感はたっぷりある。大きくとった窓から溢れんばかりの緑が、目に飛び込む。リビングの大きな古時計はボーンボーンと時を告げ、そっと耳をすませば小川のせせらぎと鳥の声も聞こえてくる。自分の中で五感が心地よく反応しながら静かに息づき始めるのがわかる。

一体この「おひさま堂」は、何の店なのだろう?
本屋かと思えば、それだけでもない。喫茶店かと思えば、それも違うらしい。

戸惑う筆者に、ご主人はおもむろに、店の奥にある引き出しをいくつか開けてくれた。ずらりと並ぶ引き出しの中には、コーヒーの生豆が実に30種類近く。
好みの豆を選び、焙煎されるのを待つこと15分ばかり。その間においしい試飲のコーヒーが振舞われる。

「おひさま堂」は、絵本・児童書の古本屋である「書籍部」と、おいしいコーヒーを愉しめる「珈琲焙煎部」が一体となったお店なのだ。

マスターにコーヒーの上手な淹れ方を伝授してもらうもよし、ぼおっと庭のテラスで小川のせせらぎを聞くもよし。好きな絵本を本棚から取り出して読むもよし、そして買うもよし。

なんと贅沢な店だろう。

この「おひさま堂」を経営するのが、大橋宏さん・悦子さん夫妻だ。

夢だった「定年したら地方移住」。
妻の想いは

お二人は長く神奈川県川崎市で暮らしていた。悦子さんは、3人の子育て、そして介護に一区切りがついたころ、何か自分で責任のある仕事をしてみたいと考え、産業能率大学で「ベンチャー企業幹部養成講座」を受講。大好きだった絵本に関わる仕事として、絵本専門の通販の店を始めた。その後、JPIC読書アドバイザーの資格を取り、読み聞かせの大切さを広める活動などに関わってきた。

いつか、地方に移住して、買い手に絵本を直接渡せる実売の店を開きたいというのが、悦子さんの夢だった。

大橋宏・大橋悦子 東京都出身。地方での生活に憧れ、宏さんが早期退職後、2012年に栃木県那須市に移住。悦子さんが以前からネット通販をしていた絵本に、宏さんの“珈琲焙煎部”を加えた店舗「おひさま堂」をオープン。

「ここで一体何をする?」
夫の想いは

一方、宏さんは長く会社勤めを続けていたが、心臓を悪くしたことがあり、体調に不安があった。それは明らかに働きすぎにも原因があると思えたため、悦子さんは早期退職制度に応募することを勧め、宏さんは58歳のときに退職することとなる。取材時から遡ること4年前の話だ。

そして、にわかに悦子さんの夢が現実味を帯びてきたのは、宏さんの父が亡くなり、栃木県黒磯市にあった土地を相続することになってからだ。その後、その土地ではなく那須の土地を買うこととなるが、那須に縁があったのはそういう理由による。

「今にして思えば、そのタイミングでよかった。移住、家の売却、引越し、店の開店と、すべてを60歳過ぎて一からやるのは大変なことですから」

地方に移住しようとなったとき、悦子さんが絵本の店を開くことは決まっていたが、宏さんは? というと、何も決まっていなかった。

川崎の自宅近くに、焙煎コーヒーを売る行きつけの店があった。
「引っ越したらここのコーヒー飲めなくなっちゃうな。寂しいな……」
そんな時に、その店がフランチャイズを募集していることを知り、はたと膝をうつ。

「それなら俺がその店をはじめれば」と。

かくして、接客指導から焙煎の仕方まですべて一から教わり、移住先でコーヒー焙煎の直営店を営むこととなった。こうして、書籍部だけだった「おひさま堂」に、晴れて珈琲焙煎部が誕生することとなったのだ。。

全29種類もの生豆を扱うのは那須でも「おひさま堂」のみ。じっくり焙煎をした新鮮で香ばしいコーヒー。淹れ方も丁寧に教えてくれる。奥の深いコーヒー道だ

理想の住まい・店づくりには時間をかける

「おひさま堂」は、店舗と居住空間がほとんど一体となっている。建築に関しては地元の工務店に相談をしつつ、「こうしたい、ああしたい」をすべて込めて作った。というのも、若い時に建てた家づくりでは「ここはこうすればよかった。もっとああすればよかった」という思いが随分と残ってしまったからだ。

手間暇をかけられる家づくりは、時間のあるシニアの特権と言えるかもしれない。土地を決め、工務店を決め、着工し、念願の住まいであり店ができるまで、何度も行き来しながらとことんこだわってできたのが「おひさま堂」だ。 「この家で不満なのは、たった1ヶ所のコンセントの位置だけ」というからすごい。

家にいる時間が比較的多いシニアにとって、居心地のよい居住空間ほどうれしいものはない。豊かな自然と共に暮らしているうちに、宏さんはいつの間にか、すっかり健康になっていた。

生活環境の差に戸惑いつつ、時間をかけて慣れていく

「定年後に地方に移住」。憧れを持つ人も多いだろう。しかし、知り合いもいない新しい環境に慣れるには、意外と時間がかかるのではないだろうか。

「うちは、お店ですからね。みなさんの方からやってきてくれますから、その点はありがたかったですね。初めの頃はスーパーに行っても知っている人は誰もいませんでしたが、それはそれで楽しんでいました。この頃はぼちぼちと知り合いに声をかけられるようになってきたわね、おとうさん」

「そうだね。店に来る人たちにいきなり人生相談されて、びっくりすることもあるね」

夫婦の会話はテンポよく、息もぴったり合っている。

大橋さんの場合、今まで住んでいた川崎市から那須までは約200キロ離れている。気候や、人間関係、コミュニティーなども随分違っており、最初は戸惑うことも多かったと言う。驚いたのは、春になってもストーブが必要なほど寒かったことだ。

「黒磯に仮住まいをしていたとき、4月なのに雪が降りましてね。あの時は寒かったなあ」と宏さん。設置されているエアコンをつけたところ、冷房のみだった。ここでは、エアコンはクーラーとしてしか使用しないことを、二人はその時はじめて知ったのだった。

予想外のことに対処する柔軟性と、楽しむ精神

もうひとつ予想と違ったことは、人々の生活が思いのほか車頼りのため、意外と生活圏が広いということだ。

「おひさま堂」の周りは田んぼで、これでお客は来るのだろうか? 筆者も気になったのだが、美味しいコーヒー豆を求めてくる人は遠く宇都宮、福島、山形などからも見えるという。

「オープン時にはまず、オープニングセールと近隣へのチラシ配りが必要、と会社からも言われていたのですが、見当違いでした。ゴミ出しをするにも車を使うような地域では、むしろフェイスブックの方が集客の役に立ったんですよ」

カラカラと楽しそうに苦労を笑って話す悦子さん。その明るさが、なんでも乗り越える強さに繋がっている。

近隣の客層は、地域の皆さんの他、那須の別荘地に遊びに来た方も多い。別荘に来るたびに「おひさま堂」に寄り、良質の絵本とコーヒーを買い求めて、別荘でのひとときを楽しむ。別荘のオーナーたち、つまり比較的シニアの方たちが本を買っていくというのも「地元の子どもたちが来るはず」と思っていた当初の予想と違うものだった。

地域に合ったニーズを知ること、当初の予定と違うことを柔軟に受け止めて対処することが、都会から移住し店を出すときには必要なのだろう。


「できれば1年くらい住んで、地域性や行動パターン、商圏をよくわかった上でお店を出すことをおすすめします。スタートしても1年間は儲けはないと考えて、修正しつつやるくらいの気持ちで」と悦子さん。お二人の場合、たまたま川崎の家が早く売れたため、半年ほど黒磯で仮住まいをしながら「おひさま堂」開店まで時間を取れたことが、結果的には良かった。絵本については、以前からネットでの販売を続けていたので、顧客がいることも心強い。

それぞれの家庭が、豊かな時間を持つために

「おひさま堂」開店から今年で4年目。コーヒー、絵本ともに売上のメインはネットの通販で、実際の店舗ではぼちぼちとやっていければよいと感じており、お二人の目標は、売上にはない。それでは、その志はどこにあるのだろう?

「子どもたちにとって大切なことは、大好きな人と一緒にお話を聞いて、笑ったり悲しんだりすること。だから、この『おひさま堂』の中や家庭の中で、くつろぎながら大好きな人と本を読むという習慣を地域の人に持ってもらい、大切な文化として欲しいんです」


一方、宏さんもまた、ここでおいしいコーヒーを飲んでもらうことを目指しているのではない。

「ここに来た人が、コーヒー本来の味を知り、淹れ方を知り、少しずつ器具などを揃えて、家でおいしいコーヒーを飲んでくれるようになってくれたらうれしいなあ」と語る。
ホームページでも、おいしいコーヒーの淹れ方の動画や、正しい粉と豆の保存法などを詳しく紹介しているのも、そのためだ。

お二人の撒く種がこの地に根付き、やがて花が咲くとき、この地域に住まう方々の家の中を覗いてみよう。絵本を読み聞かせる大人の膝の中に子どもがすっぽりと体を埋め、想像力を巡らしながら物語の世界に浸っていることだろう。その部屋には馥郁たるコーヒーの香りが満ちている。お話を読むのに疲れたころに味わうコーヒーは、至福の時を与えてくれるのだろう。

「おひさま堂」の雰囲気そのままの情景が各家庭で見られたならば、きっと子どもたちの感性はとても豊かなものに育つに違いない。

最後にちょっぴり、意地悪な質問を投げかけてみた。
「職も住も一緒。ずっとお二人で嫌になったりしませんか? 仲良く過ごす秘訣はあるんでしょうか」

宏さんは「忍耐、忍耐」と、にこやかに笑う。悦子さんは?

「仕事の中でどちらがやってもいいところで、急に亭主と女房の関係になっちゃって、押し付けられて困るときもあるんです(笑)。でも、地方で暮らそうと決める夫婦って大体、仲がいいんじゃないでしょうかね」

聞くだけ野暮だったようである。

(取材・文:宗像陽子 撮影:金田邦男)

おひさま堂 書籍部

http://www.ohisamadou.com/

おひさま堂 珈琲焙煎部

http://www.coffee-ohisamadou.com/

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