しなやかに。軽やかに。健やかに。
踊り続けて、ダンスの楽しさを広めていく

1990年代にデビューしたダンス&ボーカル・ユニットTRFは、日本で初めて、ダンサーにスポットが当たるユニットだった。デビューして28年たつ現在も、なおステージで輝きを放つ。TRFをけん引してきたダンサーのSAMさんに、お話を伺った。

SAM
1962年生まれ。埼玉県出身。ダンスクリエイター。ダンサー。TRFのライブの振り付け・構成・演出のほか、浜崎あゆみ・BoA・東方神起など多数のアーティストの振り付け・コンサートプロデュースを行い、ここ最近では、日本最古の伝統芸能「能」の舞台にダンサーとして初めて出演した。

決められた道に背を向けて、ダンサーの道へ

SAMさんは、柔和で優しく落ち着いた雰囲気をまとい、質問に一言一言丁寧に応じてくれる穏やかな人だった。
しかし、いったん体を動かし始めると、まぎれもなく唯一無二のダンサーであることがわかる。しなやかな五体、重力を感じない軽やかな動きに無駄な力は一切はいっていない。長い手足やトレードマークの長髪からは、動きに従って美しいひもが繰り出されているかのようだ。

SAMさんは、埼玉県岩槻市では有名な、代々続く病院が生家である。本人も家族も医学の道に進むものと漠然と思っていたのだろう。学校は、都心にある医学系に強い中高一貫校を選んだ。

15歳のとき、SAMさんは初めてダンスに出会った。クラスにいたダンスのうまい友達に誘われて初めてディスコに行き、フロアで踊っている白いスーツの人を見て衝撃を受ける。「なんてカッコいいんだろう」。最初は友達と毎週土曜日にディスコへ。そのうちに週に1度だけでは足りなくて自分一人でも行くようになり、大宮のディスコに通い詰めるようになる。

1970年から80年代にかけてのことだから、当然YouTubeもなければスマホもない。当時土曜日夜に放映していた「ソウルトレイン」というアメリカの番組を見て、黒人のアーティストが踊るダンスをみて目に焼き付ける。ディスコではうまい人の踊りを穴のあくほど見つめて覚える。ディスコの中のトイレの横の鏡に自らを映して練習をしてはフロアで踊る。そんな繰り返しだった。誰よりも熱心にうまい人の技を観察し、誰よりも熱心に時間をかけて練習したSAMさんはめきめきと腕を上げていった。

ダンスは楽しくて、素敵だ。ディスコという狭い世界だけではなく、もっと世の中にこの素敵なパフォーマンスを知らしめたい。そんな気持ちがふつふつと湧き出たSAMさんは、17歳のときには「プロのダンサーになって、有名になる」と心に決めていた。

当然ご家族は心配をしたものの、反対はしなかったそうだ。父は「何をするでもいい。まじめにやれ」といい、厳格だった祖父は「どうせならてっぺんを狙え。上に行けば行くほどいい景色が見られるぞ」という言葉を送ってくれたという。努力家のSAMさんが今でも大切にしている言葉だ。

ニューヨークで、ダンスの基本を学び、世界を知る

1983年、アメリカで映画「フラッシュダンス」が公開され、一世を風靡した。その映画のプロモーションのためのダンスコンテストが前年に行われた。全国から15100人のダンサーの卵が集まったとも言われたその大会で、SAMさんは男性部門で優勝。副賞でロサンゼルス旅行のチケットを得、初めてアメリカで生のストリートダンスを見たのだった。
「なんというか、めちゃくちゃ衝撃でした。映像などでブレイクダンスを見たことはありましたが、生で見たのは初めてでしたから」

ダンスに魅せられ、多くの人に自分のダンスを見てほしいと思っていたSAMさんだった。しかし当時の日本では、ダンサーとは、メインになってスポットを浴びる対象ではなく、歌手のバックで踊るバックダンサーのことに過ぎなかった。

ダンスのうまさで声がかかり、SAMさんはアイドルグループでのデビューを果たしたものの、自分が目指しているものと現実との違和感はぬぐえない。社長にアイドルではなくてダンサーになりたいことを告げると「ダンサーと言ったらバックで踊るもんだろう。せっかくメインでやれるのに、馬鹿か?」と言われたという。そんな時代だった。
SAMさんの気持ちは変わることはなく、アイドルグループを脱退し、渡米。

ニューヨークに行った目的は、生のストリートダンスを見ることとスタジオでストリートダンス以外のダンスをきちんと学ぶことだった。SAMさんはブレイクダンスには自信があったが、将来、確固たるプロになるためには自分の好きなダンスだけでは足りないという思いがあったのだ。そこで、ジャズダンス、クラシックバレエなど、さまざまなジャンルのダンスを学び、それはその後の人生でも役にたった。後年SAMさんは、スクールでダンスを教えるようになるが、「しっかりとした基礎の上に才能の花は咲く」という考えのもと、クラシック、コンテンポラリー、ヒップホップ、ハウス、ジャズダンスという5つの柱を必ず生徒たちに学ばせている。

ニューヨークでダンスのレッスンに励む(左)。 前列一番左でポーズ(右)

そして、ニューヨークで得たことは、ダンスばかりではなかった。一番大きな収穫を聞いてみた。
「世界を見たことです。今まで日本にいて、日本人しかいないところで育っていたけれど、ニューヨークにはあらゆる人種がいて、その中で“自分とは何か”を考えることができました」

人種のるつぼの中で、ある時は銃撃戦が目の前で起こり、ある時は突然刃物で切り付けられた。社会の底辺にうごめく人たちの生きるためのたくましさもたくさん見せつけられた。

今まで育った環境の常識では考えられないようなことが起こる。では常識とは何か。自らはどう生きるべきか。そんなことを考える機会にもなった。小さな積み重ねが、若いSAMさんに冷静さと判断力と広い視野をもたらしていった。

バックダンサーで終わりたくない。揺るがぬ思い

帰国後、ダンスチームを組み、深夜番組のレギュラーになると、それがきっかけとなってプロのダンサーを探していた小室哲哉氏に声をかけられ、TRFとしてデビューすることとなる。「TRFはダンサーにもフォーカスしたユニットにする」という話だったが、すんなりとはいかなかった。曲の間奏になり、踊りがメインになったところでパッと照明が消えたり、踊っていても全くカメラに映らなかったり。そんな演出にひとつひとつ疑問を投げかけ、理解を促し、話し合う。小室氏の理解もあり、ダンス&ボーカルユニットとして少しずつ演出も変わり、認知されるようになっていった。

1994年。TRFデビュー1年半、オリコン初登場で1位を獲得する

さらに転機となったのは、TRFが小室氏の元から独立し、仕事が減った時期の6年間だった。42歳を迎えたSAMさんは、かねてよりの目標であるダンススタジオをオープンし、自らのダンサーとしての経験を後輩に伝えるようになったのだ。
6年後、ついに「where to begin」 がヒット。「6年間の思いが込められていた」とSAMさんが語るように、今映像をみても、弾けたように踊る総勢数十名のダンサーたちの群舞は目が覚めるようだ。いうまでもなく、はち切れんばかりのエネルギーで踊っていたダンサーたちは、全員SAMさんのダンススタジオで学んだ教え子たちだった。

オープンしたスタジオの教え子たちと共に舞台に立つ

ダンスをもっと、広めたい。
ダレデモダンスの誕生

2012年、TRF結成20周年になったときに、一般の人向けにイージー・ドゥ・ダンササイズ(エクササイズDVD)を出すことになった。ダンスのプロを目指す若者向けに指導はしてきたものの、素人相手のダンササイズDVDは初めてで、全く勝手が違う。当初、あまり気乗りはしなかったというが、思った以上に反響が大きかった。「世の中の人はこういうのを求めているということがわかり、それなら高齢者向けのプログラムも作ろうと思いました」

こうして2016年に一般社団法人「ダレデモダンス」を立ち上げた。「ダレデモダンス」は、文字通り、高齢者でも子どもでも、病後で動きづらい人でも誰でも踊れるように振り付けを考えたダンスだ。心臓病のリハビリに効果的な有酸素運動を求めていた従兄弟の丸山泰幸医師の監修により、継続的に行えて、80歳を過ぎた人でも病弱な人でもできるプログラムとなった。ワークショップを毎月開催するほか、医師学会や行政のイベントなどで活動を広めている。

「ダレデモダンスでは、『音楽に合わせて体を動かすのは、楽しい』と思ってもらえることが大切だと思っています。もちろん難しいステップは要求しないし、リズムに合わせて手をたたくだけでも楽しいものなんです」
反響はとてもいい。「75歳くらいのおばあちゃんが『この年になるまで自分が踊るなんて思ってもいなかったけれど、こんなに楽しいと思わなかった』なんて言ってくれるんですよ」それは、SAMさんにとっても驚きであり、新鮮な喜びとなった。

一生現役で踊り続ける

ダレデモダンス活動を広める一方で、自らダンサーを引退する気はさらさらない。
「踊ることが好きなので、これはやめられないし、いつでも舞台に立ちたいと思っています。100歳になっても踊っていたい」。TRFには常に若くてうまいダンサーを入れているのも、若者から刺激を受けたいという気持ちが強いからだ。
「そこで、自分より劣っている人間を入れたら、それはもうしぼんでいくだけですからね」とニコリ。

身体の衰えを止めるのもストレスを解消するのも、毎日のトレーニング以外にない。最近は能にも興味を持ち、間の取り方、スピードの強弱のつけ方など、その奥深さに驚きつつ、ダンスに取り入れたいと修業中だとか。

白いスーツの無名ダンサーを見た15歳のあの日から、SAMさんは「すばらしいダンスは、すべての人に見てもらうにふさわしい芸術だ。そう認めてもらえるために、今何ができるか」と常に考え、実践して、ダンスを極める山を登ってきた。

今来し方を振り返れば素敵なダンスをもっと見たいファン、もっとうまくなりたい若者、体を動かすだけで楽しいことを知ったお年寄りや子どもたち、病を得て健康を望む人。 思ってもみなかったほど、多くの人たちの笑顔がそこにある。

「上に行けば行くほど、いい景色が見えるよ」という祖父の言葉は、嘘ではなかった。

もっと上に。SAMさんは、今日も登り続けている。

(取材・文:宗像陽子 写真提供:ネクストジャパン)

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