時代を知り、見極め、女性の美を追求する

日本全体のファッションが和から洋に移る時代に美容家となり、常に時代の最先端を見極めて、表現し続けた美容家渡辺雅子さん。その足跡は、戦後の働く女性史と日本の美容史をたどることでもあった。女性の外面だけではない、内面からの美しさにまでこだわった渡辺さんの半生を追う。

記憶の中でキラキラと輝く 伊豆下田黒船祭

昭和20年。父を戦争で亡くし、伊豆下田に母とともに疎開をした3歳の女の子、渡辺雅子さん。人前で歌を歌うことが大好きな無邪気な女の子は、昭和22年に再開された下田の「黒船祭」で歌う機会があった。今も続くこの祭は、当時、街の人口より多いほどの水兵さんであふれる国際色豊かな活気に満ちたお祭だった。

アメリカ兵を憎む年でもなかった幼児の渡辺さんは、モーターボートに乗せられて沖合に停泊する一番大きな空母に到着した。アメリカ兵にひょいと抱っこされ、タラップを上がり、制服の将校やキラキラのドレスを着かざった夫人たちの前で童謡を2曲歌ったのである。水兵姿のアメリカ人は幼児の目から見ても格好良く、夫人たちは美しく、観客の前で歌うのは誇らしく、楽しいことだった。

その後の人生で、「日本人しかいない社会なんてつまらない。人種のるつぼでいろいろな人と関わるのが好きなの」と、日本にとどまることなくニューヨークに住まいを持ち、仕事やプライベートで様々な人種の人と積極的にかかわっていった渡辺さんの原体験は、この「黒船祭」にあったのかもしれない。

この女の子の最初の人生の試練が、(本人は無意識だったとしても)父親を戦争で亡くしたことだったとすれば、2回目の試練は、母が再婚した継父もまた渡辺さんが中学3年生のときに不慮の事故で亡くなってしまったことだろう。
歌の道に進みたいと考え、中学からは放課後に声楽とピアノのレッスンを重ね、継父の死後も東京で音楽大学を受験、合格したものの結局進学をあきらめる決断をする。

歌手になる道を貫くには、多くの人に頼らざるを得ない。しかし働くことが一度もなかった母親や、まだ幼い弟妹を支えるためには、自分が自立して、早く仕送りをしなければならないだろう。渡辺さんは歌の道を断念し、働くことを選んだ。当時の常識的な考えでいえば、早くお嫁に行くことが安定した生活への早道だっただろうが、そういう道を選ぶつもりはさらさらなかった。

渡辺さんの強さは、試練を試練と思わず、前向きに人生を切り開いていくところにある。
下田に戻り、アルバイトをしながら自立をするための道をさぐっていたときに、目に留まった新聞記事が渡辺さんの運命を決めた。それは大手化粧品会社の美容家を募集する広告だった。

渡辺雅子
神奈川県出身。1942年生まれ。美容家。大手化粧品メーカー入社後美容宣伝部長を経て独立、ヘアメイクアーティストのレップ「W 4 YUZO」を設立。その後渡辺メイクアッププロモーションを設立。1995年より「渡辺雅子式クリエイティブエステ法」を確立し、エステティシャンを2000人近く育成した。著書「10年前の顔になる 顔筋再生マッサージ」他多数。

美容家として、歩み始める

「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれたのが1956年。それからさらに4年たった1960年。ファッションの世界も和から洋へシフトはしていたが、まだまだトータルに洋のファッションが完成されているわけではなかった。中途半端な化粧に、洋装と合わない靴や帽子、体型に合わないドレスが街にはあふれている。そこで必要とされたのが、ヘアやメイクアップなども含めたトータルファッションをアドバイスできる美容家だった。

当時、募集広告をみて応募した400人余りの中から選ばれた7人の中に渡辺さんははいっていた。他の6人は、何らかの技術を身に着けていたが、ただ一人渡辺さんだけは、なんの技術もない素人だったという。会社は、若い渡辺さんに何かしら可能性を感じたのだろう。期待に背くことなく、入社後、昼間は会社で働き、夜は通信教育と夜間の学校へ通い、美容の国家試験に合格。美容家としての一歩を踏み出す。

「それまで私は、自己を表現する方法として『歌手』になりたいと思っていました。けれども『美容家』として他人を美しく表現する職業もいいじゃないかと思ったのです」

渡辺さんは、この会社でトータルファッションのすべての技術を超一流の講師陣に学ぶことができた。専門家たちの講義と実践の日々に、渡辺さんはスポンジのように、美容の技術や理論、最新の情報を吸収していった。
「最新のヘアスタイリング、フェイシャル、エステ、化粧品の素材にふさわしい成分は何かということから顔立ちに似合うにはどのめがねをかけたら映えるのか、口紅の色はどう選ぶのか、メイクアップとヘアスタイルはどう合わせるか、こんな服装にはどんな靴をはくのか。どんな体型にはどんなドレスが似合うのかといったことまで。学んでも学んでも、次から次へと学ぶべきことが出てくるでしょう。今までになく、毎日がキラキラしていました。あれだけの知識を、会社がお金を使って教えてくれたわけですから、ありがたいことでした」

男を圧倒する。時代の顔をプロモーション

28歳のときに、3歳年下の男性と結婚した渡辺さんは、結婚に対する考え方も当時としては型破りだった。「結婚はしたいけれど、仕事は続けたい。だから、生活費も半々、子育ても半々。不動産も半々。これなら離婚をするときもスッキリできると思ったけれど、今だに離婚もしていませんよ。お互いに好きなことをやっていますから」と笑う。

翌年には子どもを産み、仕事と子育てを両立させて33歳で美容宣伝部長となる。
それまで男性の領域だった広告宣伝では、モデルの選び方ひとつとっても男性目線になってしまうことに違和感を感じていた渡辺さんは、女性の目線で広告をクリエイトしたかったのだ。

大胆なショートヘアのモデルに、ひまわりのような健康的な笑顔と、女ではあるが男を圧倒するという気迫のあるポージング。女は男のための化粧をするのではなく、堂々と生きたいように生き、自分のために化粧をするのだ。そんなメッセージをこめた広告は、時代の波に乗って、女性たちに大いに受け入れられたのだった。

35歳で退職し、夫とプロダクションを設立。広告撮影やファッションショーを中心に活躍するヘアメイクアーティストプロダクションのマネージャーとして力を発揮していく。ニューヨークと東京に拠点を持ち、行き来をしながら水を得た魚のように働き続けた。1990年に入り、エステの研究を本格的にはじめる。働く女性が増え、それまで以上に、多くの女性が肌のトラブルや肌質の変化などに悩んでいることを目の当たりにしていたからだ。さらに、1995年には後進の育成もはじめ、今までに2000人以上のエステティシャンを育て、独自の美容理論を伝えている。

ただ化粧をし、マッサージの技術があれば美しくなれるわけではない。その人の人生が充実し、輝いていなければ、にじみ出る美しさは出てこないと渡辺さんは考えている。渡辺さんは、長年の施術によって、相手の肌に触れただけで心の問題まで察してしまうという。精神的な問題を抱えている人の肌は冷たい。触れて触って、相手の皮膚を温めながら、心に寄り添い、美しさを引き出していく。渡辺さんがゴッドハンドと言われる所以だ。

70歳を超えて、さらに挑戦する

長年、技術を研鑽し、後進を育て、多くの人の肌に実際に触れて経験を重ねてきた渡辺さんが70歳を前にして、やっていないことがあった。それまでは、既製品から選択した基礎化粧品(素材)を使っていたが、どうしてもこだわりたいとなれば、自分で作るしかない。そこで、よりよい素材を求めて世界中をまわり、肌が進化する基礎化粧品を目指して自身のブランドを立ち上げた。
「なにかを始める時や技術を習得する時って苦労がありますね。でもそこに到達する光みたいなのがあるじゃない。大変な思いをしても新たなものに挑戦するのが好きなんですよ」。その探求心はとどまることがない。

2019年、渡辺さんは77歳になった。今は育成に650時間かかるプロのエステティシャン養成はお休みにし、サロン経営ノウハウについてアドバイスをしたり、一般客でも参加できるカルチャースクールLe me weビューティー大学を開設し、誰でも自分の手で美しくなれる術を教えている。新たな化粧品の開発にも余念がない。

7月のある土曜日、渡辺さんの77歳バースデーパーティーは、ディスコの聖地、マハラジャ六本木で盛大に開かれた。ラメの光るブルーのミニ丈のワンピースに身を包み、80人以上の招待客と共に、渡辺さんはマイケル・ジャクソンのスリラーを楽しそうに踊っていた。

「喜寿のお祝いに、普通に紫のちゃんちゃんこを着てすわっているだけではつまらないでしょ。何か面白いことをしたくて」という渡辺さんは、70歳のお祝いの時もスリラーを踊っている。すでに渡辺さんの「スリラー」はファンにとってはお楽しみで、当日も若いお弟子さんが「先生!かわいいっ!」と手をたたいていた。

とてもお元気そうに見えたが、実は渡辺さんの左半身は、常にしびれと痛みがある。長年ヘアメイクの指導やエステティシャンの育成をしていたことで、軸になる左足に負担がかかるようになってしまったためだ。
「でも、皆さんの前に立った時に痛い痛いなんていってられませんからね。与えられた苦難を克服するというのが、私なんです」と、にこやかに語る。

苦難を苦難ともせず、乗り越える。それは、身体的なことだけではなく、渡辺さんの人生そのものだともいえそうだ。

もっとこだわって、もっと美しく
人と違うことを、面白く

「それじゃ面白くないじゃない?」。取材中そんなセリフが何度か飛び出した。

誰でもこんな生き方をしたいという将来像を描き、進む。しかし、思うようにいかないことのほうが多い。それはいつの世でも、誰のどんな生き方でも同じだ。
しかし、その運命を受け入れながら、新たな道をどうやって切り開いていくかは、自分次第なのだと渡辺さんは教えてくれる。

「もっとこだわって、もっと美しく。人と違うことを面白く」。
その一点で黒船祭のあの日から、77歳になってなおぶれることなくまっすぐ美容の道を歩む渡辺さんの生き方は、潔くてとても美しい。

(取材・文 宗像陽子 写真 金田邦男)

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