風の吹くまま、気の向くまま。
自転車に乗って走れば、世界が広がっていく
真っ白なあごひげをなびかせてクロスバイクにまたがり、自転車野郎はどこへ行く。国内はもちろん、やがてその行動範囲は海外にまで。澤野五郎さんはなぜ、自転車に乗るようになったのか。人生の転機となった出会いについて伺ってきた。
50歳を過ぎてから、クロスバイクに出会う
穏やかな笑顔と白く伸びたあごひげがトレードマークの澤野さんが初めてクロスバイクに乗ったのは、もう中年も過ぎた頃だ。69歳となった今では、韓国や台湾といった海外にまで足をのばし、気ままな自転車旅行を楽しんでいる。
クロスバイクに乗り始めたのは、ひょんなことから耳にしたあるひと言がきっかけだった。2010年当時、妻が営んでいた古書店にちょくちょく顔を出していた澤野さん。店には、近所の大学に通う学生がよく訪れた。ある日、クロスバイクに乗った学生がやってきて、澤野さんに言った。
「おっちゃん、この自転車はおもろいで。坂道だってちょっと頑張ればすいすい上れるよ」
その頃、澤野さんの家の前は急坂。そこで、その学生を自宅前に連れていき、実際に走らせてみたところ、彼はその急な坂を上り切れなかった。
「これは絶対に無理や。こんな高いところやったら、自転車に乗ったらあかんやろ」
しかし、その学生の言葉になんとなく悔しさを覚え、「よし、走っちゃろう」とむしろ奮起。早速クロスバイクを買い、当時の職場までの7キロを自転車で通うようになった。毎日乗って、帰り道には自宅前の坂を上ろうとするのだが、途中であきらめて自転車から降り、坂を歩いて上がる。
そんなことを毎日繰り返すうち、半年後には自転車から降りることなく家まで坂を上り切れるようになった。
「家まで上がれるようになったで~」と学生に自慢すると、彼は驚きつつ「おっちゃん、すごいなー。ほんまにすごいなー」と褒めてくれた。
「それは、ちょっとうれしかったな」
愛車「GOROHACHI号」誕生
こうなると、がぜん面白くなる。坂の下にあった自転車販売店の店主とも親しくなり、自転車についていろいろと教えてもらうようになった。それまでは通勤の往復と家の前の坂を上ることしか考えていなかったが、その店主に遠出を勧められ、初めて自転車旅行をしたのが琵琶湖一周。その後、その販売店で自転車を作ってもらい、出来上がりを妻と見に行った。
「あれが、ワシの新しい自転車やで」
あの時、ピカピカの新しい自転車を妻・八重子さんに見せられてよかったと、澤野さんは感じている。八重子さんはその一週間後に突然倒れ、帰らぬ人となってしまった。八重子さんに見せることができたその自転車は、その後ほとんど乗ることもなく、今も彼女の部屋に飾ってある。
八重子さんの突然の死から一年ほどが過ぎた頃、自転車販売店の店主に「古い型落ちのパーツがいくつかあるから、自分で自転車を作ってみたら?」と声をかけられた。難しいところは手を貸してくれるというので、教わりながら作ったのが、今も乗っている愛車「GOROHACHI号」。その名は、五郎さんと八重子さん、二人の名前からとられたものだ。
西国三十三所を1カ所ずつ巡り、妻を悼む
八重子さんの一周忌が近づいていた。澤野さんの家系はもともと無宗教で、ご先祖様に手を合わせるような慣習もあまりなく、和尚さんを招いたものの、自分なりにどのように供養をすればよいか、心の持ちようもわからない。
その頃、そろそろ本格的に自転車で遠出をしたいと考えていたこともあり、澤野さんは和尚さんに恐る恐る尋ねた。
「西国三十三所を自転車で回ってみようかと思うんやけど、供養になるかな?」
「それでええ。供養なんてものは、なんでもその時に自分がやってあげられることをやってあげたらええんや。御朱印帳の表紙に朱印を押してあげるから、頑張ってみたらええ」
西国三十三所とは、近畿2府4県と岐阜県に点在する33カ所の観音信仰の霊場である。和尚さんの言葉に背中を押され、澤野さんは日帰りで1カ所ずつ回り始めた。一番遠かった那智の青岸渡寺には、泊まりがけで行かなければならなかった。こうして、澤野さんは少しずつ距離をのばして走るようになる。そして、自転車の面白さがわかってきた。
今まで経験したことのないことを経験する。それは何歳であろうと新鮮で心が浮き立つものだ。那智に向かった時には、暑い夏のさなかだったこともあり、夜間に走ることにした。夜の闇を自転車で駆け抜ける。漆黒の闇の中では、自転車のライトの光すら闇の中に吸い込まれていく。自分がどこにいるのかもわからない。しかし、恐怖に感じられていたことも、経験すればその恐怖は消えていく。前に向かってペダルをこぐことで、気持ちも次第に前向きになっていくのがわかった。
定時制高校へ入学。
さらに「シニア50+(プラス)制度」で大学へ
八重子さんが亡くなる半年前、澤野さんにはもうひとつ、新しく始めたことがあった。それは、定時制高校に通うことだった。
澤野さんは高校を卒業していない。「高校に行ったもののすぐにやめてしまって、自由に生きていたんですよ」と屈託なく笑う。7人兄弟の末っ子だった澤野さんは、親より兄弟に育てられたようなもので、遊んでいることをとやかく言われたこともない。しかし、19歳の時に、「20歳になるまでは自由にしていてもいいけれど、20歳になったら、遊び人になるのか真人間になるのか、はっきりせいよ」と、長兄に念を押されたそうだ。
20歳になった時に遊ぶことに区切りをつけ、八重子さんと結婚。一男一女の子宝にも恵まれ、50歳になるまでまじめに働いた。10代の時に遊んでばかりいたことに後悔はない。それでも、50歳になって仕事をやめ、しばらくしてから八重子さんに「学校に行ってみたら?」と勧められたのを機に、定時制の高校に通い始めたのだ。
2010年4月から高校に通い始め、その半年後に、残念ながら八重子さんは亡くなってしまった。しかし、澤野さんはその後も休むことなく高校へ通い、きちんと3年間で卒業した。その後は、八重子さんの営んでいた古書店をしばらく続けていたが、さてこれからどうしようかと思っても、よい考えが浮かばない。そんな時に定時制高校の先生に勧められたのが「大学進学」だった。
「難しいこと言われてもわからんから、途中でもやめてもええ。行くだけ行ってみようか」
そう思えたのは、神戸山手大学に50歳以上が対象の「シニア50+(プラス)制度」という制度があることを知ったからである。エントリーシートを提出し、面談を経て、書類審査のみで合否が決まる。奨学金が年間40万円まで4年間支給されるのもありがたい。
この制度を利用して、澤野さんは大学に入学。月曜から金曜まで、若者たちに交じり、建築学を学んだ。
「建築学を選んだのは、息子が建築士だからですよ。建築の専門用語などもわかるようになれば、家で息子と会話をしていても通じやすくなるのではないかと思って」
大学で知己を得て、広がった世界
4年間建築学を学んだものの、専門知識がものすごく身についたというわけにはいかなかった。成績に関しても「お恥ずかしい限り」と頭をかく。
しかし、大学に進んだことで、澤野さんは大きな財産を得た。それは、さまざまな友人に恵まれ、視野が広がったことだ。
「退職して家にこもってしまうと、情報も入ってこないし、何か困った時に相談する相手もいないでしょう。大学に籍があれば、講義がなくても、空いている時間にいつでも大学に行けます。行けば、友人にも会えます。履修生なら特別参加で行事にも参加できるし、受けたことのない授業にも出席させてもらえるんですよ。確実に、世界が広がりました」
澤野さんは、卒業後も単科で履修を続け、現在では大学生活も6年目を迎えている。短大の行事であるイタリア旅行には、6年連続で特別参加した。学部のゼミ旅行では、台湾にも行った。先生も常に声をかけてくれて、楽しい時を過ごしている。若い人たちとの会話も新鮮だ。
「旅行へ行くと見たことのないものを見られますから、何度行っても新鮮ですよ。海外に行くのも面白いなと思うようになりました」
「若い人たちの邪魔にならないよう、後ろにこっそりといることが溶け込むコツ」と笑うが、存在感は意外と大きそうだ。
こうして、大学で交友関係が広がるとともに、澤野さんの行動範囲もより広くなっていった。それがまた、個人の自転車旅行の世界を広げるきっかけとなっていく。
大学1年の時には、初めて四国へ渡った。その途中、自転車で四国一周をしてきた人たちに多く会ったが、自分はとても四国一周などできる気がしなかった。でも……。
「来年あたり、四国一周にチャレンジしてみようかな」
大学に帰ってきて、ふとつぶやいた。すかさず友人たちに突っ込まれた。
「今年行かない奴は、来年も行かないだろ」
そこで、その年の夏には四国一周八十八カ所巡りにチャレンジ。きつかったが、これができたのなら日本列島の縦断も可能だろうという自信につながった。
翌年は、日本海側から北海道へ。次の年には、北海道一周。そして九州一周。沖縄も一周して、日本の外周を制覇した。昨年は台湾を自転車で一周。今年は韓国へも行った。自転車旅行ではないが、大学の友人とヨーロッパにも足を運び、5カ国を走ってきた。
時には背中を押し、
時にはブレーキをかけてくれる友の存在
「大学の仲間たちが、いろいろなきっかけを作ってくれるんですわ」と澤野さん。最初の一歩を踏み出すのは、誰にとっても難しいものだ。
澤野さんも、自分はなかなか物事を決められない人間だと感じている。どうしようかな。できるかな。心配だな。そんな時にそっと背中を押してくれたり、軌道修正をしてくれたりしたのが、妻の八重子さんだった。その存在を失い、立ちすくんでいた澤野さんは、今、友人たちの声援やアドバイスを背に、小さな冒険に旅立つ。
友人たちは、いつも澤野さんをたきつけてばかりいるわけではない。常に澤野さんを見守り、危うい時にはブレーキをかけてくれる。酷暑の韓国で暑さにバテそうになっている時には、「無理するな」と日本から友人がメールをくれた。そのメールをお守りのようにして、途中でリタイア。自転車を降り、予定地までバスで行くことにした。
「競技選手じゃないんでね。無理はしません」
旅行先では、地域の人たちとのふれあいを楽しむ。自転車が通行止めになり、先に行けず困っていたら、トラックの運転手が同乗させてくれた。北海道で雨に降られ、寒さに震えてやっと宿にたどり着いたら、「チェックインなんか後でいいから、早くお風呂に入りなさい」と言ってくれた旅館の女将さんもいた。澤野さんのブログに登場する澤野さんを模したかわいらしいイラストは、定時制高校の美術の先生が描いてくれたものだそうだ。
澤野さんの話の端々に出てくる「実にいい人たち」の存在。それはとりもなおさず、澤野さんの人間味あふれる人柄が引き寄せるものにほかならない。ちょっぴり頑固なところも持ち合わせるが、どことなくかわいらしい。真っ白のあごひげは長く伸びて、ユーモラス。台湾でフライドチキンの店のそばにいたところ、カーネル・サンダースと間違われて、次から次へと記念撮影を頼まれたというエピソードなども、聞いているこちらがほのぼのとしてしまう。
取材が終わると、早速、澤野さんのもとに大学の友人たちが寄ってくる。次の旅行の打ち合わせのようだ。
「安い航空チケットがあったで」
「よっしゃ。それでいこ」
破顔一笑。
「今日はこれからどうする?」
「三宮でも行くか」
20歳前後の若者のように、実に楽しそうに澤野さんは友人たちと肩を並べて、神戸の街へ消えていった。
(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)