文房清玩の収集50年。
モノを慈しみ、モノにまつわる人を愛する
文房清玩(書道用品)骨董の目利き、収集の第一人者である渡邉久雄さんのご自宅に伺った。書道用品の店に50年勤務し、退職後は自宅近くに「百八研齋(ひゃくはちけんさい)」という店を出し、名品・珍品を展示販売している。渡邉さんはどのような道を歩んで収集の道を極めてきたのだろうか。
15歳で親元を離れ、働く
南伊豆の突端・石廊崎から下田寄りに数キロ行ったところに「下流(したる)」という小さな集落がある。今回ご紹介する渡邉さんのふるさとだ。
渡邉さんの生家から海までは、ほんの50mほど。物心ついたときには海で遊び、波の音は常に傍らにあり、日の出や夕日に心を奪われながら育ってきた。父は漁師、母は海女。一家は海の仕事で生計をたて、家族仲良く暮らしていた。しかし渡邉さんが中学生のときに、親が船を買うために借金を作ってしまったことを知り、高校進学をあきらめ、就職の決意をする。
知人の縁もあって雇うことを決めてくれたのが、東京・浅草の「宝研堂」の社長だった。宝研堂は、蔵前や浅草橋の文房具店に筆・墨・硯を卸したり、文房具の小売りをしている書道用品店であった。渡邉さんは15歳で上京し、住み込みで働き始める。手に持ったものは下着とシャツが2枚ずつと、わずかばかりのお金だけだったという。
社長夫妻は優しく、よくかわいがってくれた。その後50年にわたり、渡邉さんはこの会社で勤めることとなる。社長の息子さんは渡邉さんと2歳違い。まるで兄弟のように仲良く育ち、現在は社長であるその息子さんからは、いまだにちゃん付けで呼ばれるほどだという。田舎から出てきた少年をどれだけ大切に育てたか、前社長の人柄も知れよう。
ぷんと墨の香りがする店内。たくさん積み上げられた墨や硯、そして筆。見るもの聞くものすべてが渡邉少年にとって新鮮だった。
最初の仕事は、毎日仕入れた荷物をほどいて、数を数え、伝票の数と合わせること。そして荷物の出荷だ。商品をりんご箱にいれ、荒縄で結わく。そのやり方ひとつから先輩に教えてもらい、夜は夜で硯を彫る社長の傍らで徒然なる話を聞きながら、硯の磨きを手伝う。
一日はあっという間に過ぎていった。片付けた仕事場か、居間か、どちらか人のいなくなった方の部屋が渡邉さんの寝床になるのだった。さっきまで人の気配がしていた部屋はしんと静まり返り、少年は布団の中で丸くなるしかなかった。
「急に寂しくなってしまい、よく布団の中で泣いていましたよ」

静岡県出身。昭和22年生まれ。古美術商。書道用品の老舗「宝研堂」に50年勤務ののち退職。自宅近くに「百八研齋」をオープン。趣味で収集してきた文房清玩を展示・販売している。
500円の月賦で、中国の硯を初めて買う
働き始めて1年たった昭和39年3月のこと。社長が中国に行き、たくさんの硯を買ってきた。それまでの宝研堂は主に実用品を取り扱っていたから、硯といえば真っ黒な長四角のモノしか知らない。ところが、社長が中国から買ってきた硯は、今まで見たことのないようなものだった。
「社長も興奮していましてね。『こんなものがあるんだねえ』と言いながら次々と中国の硯を見せてくれました。その時の社長の、驚いたりうれしそうだったりする顔を今でも思い出します」
買ってきた硯を、水を張った盥につけて洗い、汚れを落とすのは渡邉少年の仕事だった。大きいものもあれば小さいものもある。四角ばかりでなく、丸かったり薄かったり厚かったり、形も様々だ。丁寧に洗っていると汚れが取れて、次第にその硯の全貌が見えてくる。
あるものは微妙に色に濃淡があった。自然の石が醸し出す石紋の美しさ、その石紋などを利用した彫刻の素晴らしさが、硯を洗う渡邉さんの手を止めさせた。
「硯とは、こんなに奥深く素晴らしいものなのか」。深い驚きと魅力を感じた渡邉さんは、次第に硯を買いたいと思うようになった。
その半年後。16歳の渡邉少年は、入荷品の中から一つの硯を選んで買うことにした。価格は4,000円。当時の給料が9,000円。即金では買うことができず、500円の月賦でやっと買えた。
その後、一体どれだけの数の硯を買うことになるのか当時の渡邉さんは知る由もないが、この硯は今に至るまでずっと渡邉さんとともにいることになる。記念すべき収集第1号の硯として。そして渡邉さんの人生の伴走者として。

仕事が学びの場であり、娯楽でもあった
“文房四宝(ぶんぼうしほう)”という言葉がある。「書斎(文房)になくてはならない四つの宝物」という意味で、筆・墨・硯・紙を指す。それに加えて、印材、筆筒、水差しなどの必需品や飾り物を総称して、文房清玩(ぶんぼうせいがん)と呼び、愛好者はより良いものを探し求めて楽しむ。
渡邉少年は心根がとても素直でもあったのだろう。スポンジが水を吸うように文房四宝を見る目を肥やし、多くの目利きの先生とも話す機会に恵まれ、少しずつ文房清玩を収集するようになっていった。
「筆ひとつとってみても、長いもの、短いもの、太いもの、細いもの。いろいろあります。あれこれ見るのが楽しくて、仕事を嫌と思ったことは一度もありませんでした」

「優れた希少品を残す」という使命
そして時は流れ、50年の間に収集した品も次第に増えていき、渡邉さんはいつしか、自分の趣味の品々を展示する部屋を持ちたいと思うようになる。
2010年に自宅を改装し、硯の原産地・宮城県の雄勝より玄昌石を取り寄せて、塀を造った。「百八研齋」の表札をたて、念願の趣味の部屋もできた。今回お邪魔したのはこの自宅の部屋である。さらに、宝研堂を2012年に退職してから、自宅から数分の場所に店舗としての「百八研齋」をオープン。長年かかって収集した品々を置き、展示・販売は息子さんに任せている。

店舗にも自宅にも、中国二大名硯として知られる端渓硯(たんけいけん)、歙州硯(きゅうじゅうけん)は言うに及ばず、細工の細かい印材や墨を作る木型、彫りの美しい多数の硯、クジャクの羽のように見て楽しむだけの美しい筆や文化大革命前に作られた筆など、名品・珍品は枚挙にいとまがない。
自分が気に入ったもの、希少価値のあるものを集めていく
とはいえ、数多ある収集品が、すべて高価なものというわけではない。渡邉さんはどういう基準で収集するのだろうか?
まずは、自分が気に入ったもの。どこか自分の心にまっすぐに訴えてくるものを直感的に選ぶことが多いという。部屋には、中国の清の時代の硯やら希少価値のある筆やらが所狭しと並ぶ中、道端で拾ったもの(!)まで同列に飾ってあることに驚く。これと思うものは、金額の高低に比例するものではないらしい。
「これはね」。テーブルの上に置いてある硯を指さして水を落とした。水を落とすと複雑な波模様の石紋が、姿を現す。この石紋があたかもふるさとの夜の海を彷彿させるという。そんな石は手放すことはできずに置いてある。
「これは中国で拾ってきました」。おっしゃるものを見ると、小さな硯だ。中国の硯の産地で路傍の石を拾ってきて磨き、自分の普段用に使っているそうだ。
「これはね」。また、数々の貴重品の中からひょいと一つの石を持ち上げる。
「伊豆の田舎で拾ってきたものなんですけれどね、私のふるさとの石なもんですから、筆置きにして大事にしております」
15のときに家を出た渡邉さんにとって、ふるさとは特別の意味を持つのだろう。

さらに、自宅に置く多くのモノには、それにまつわる様々な思い出がある。
自らその品を売った何年かの後、何人もの手を経て、再び自分の手元に戻ってきたもの。
大切なお客様が下さったもの。
亡くなったお客様との思い出がよみがえるもの。
買ったときの情景が鮮やかに浮かぶもの。
そんな大切なモノと人との思い出をまとめて、自分史として一冊の本にまとめたのが『百八研齋清玩五十選: むかしがたり』だ。「モノ」だけではなく、「ひと」に寄せる渡邉さんの温かい心がわかる一冊だ。
好きなモノに囲まれ、気の合う仲間と語らう
渡邉さんの現在の暮らしぶりはどうか。「よい品があります」と聞けば、北海道から沖縄までどこにでも飛んでいき、鑑定したり買い取ることもある。月に何度かは骨とう品市に出かけ、掘り出し物を探したり、美術商の仲間たちの集まりに出かけることもある。中国には年に2回ほど出かけるが、最近はもっぱら観光がメインになった。
特に用事がないときには、自宅の部屋でお気に入りのモノに囲まれ、お気に入りの演歌を流して、お気に入りの硯に水を垂らしてみたり、時には硯に小花や小物を飾ってみたりして遊ぶ。
文房に対して興味のある人や仕入れを希望する人が渡邉さんのもとを訪れることもある。そんな人たちと「文房談義」をするのもまた楽しい。
「こんな硯がありました。どうでしょう」
「なかなかいいですね。彫刻も上手です」
「よく似た材質のものがありますよ」
「このあたりの石肌、そっくりですね」
話は尽きることもない。
文房を愛する人が4,5人も集まれば、自宅は急きょ「百八研齋スナック」となる。夜更けまで文房談義は続くのだった。
もっと文房清玩の面白さを知ってほしい
今、渡邉さんが自宅に置いてあるものは、売らずにずっと手元に置いておこうと思っているものが多い。思い出深いものであったり、値段が高い安いにかかわらず、手放したらもう二度と手に入りにくい一点物だからだ。それを手元に置いておきたいというのは、単なる我欲ではない。
若い人にはもっと書道用品の面白さを知ってほしい、と渡邉さんは言う。
「書道に携わる人は、どうしても展覧会で賞を取ったということにこだわりがち。でも『この筆で書いたらどんな線が出るんだろう。この硯でこの墨を摺ったら、どんな墨色になるのかな』と、もっと書道用品に興味を持ってほしいのです。用具のいろいろを見て違いを知ってほしいし、用具を愛でる楽しさもわかってほしい。そういう人のために資料として、きちんと残しておきたいと思うのです。ここを文房清玩ギャラリーだと思ってもらえればうれしいですね」
「百八研齋」にあったのは、モノだけではない。モノにまつわる温かな心と使命感なのだった。
(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)
