101年続く和菓子屋で
手作りの味を伝え続ける

高輪・泉岳寺に、100年続く人気の和菓子屋さんがあるという。一日1000個の大福が、早いときには午前中で売り切れる。たずねて行ってみると、驚くほど小さな店だった。この小さな店のどこに、そんなパワーがあるのだろうか。3代目の店主文屋さんに伺った。

創業101年。小さな店の大きなパワー

泉岳寺駅から国道415号線を歩き、伊皿子坂を上る。交差点を曲がった右側に、老舗和菓子屋の「松島屋」はある。
昭和の雰囲気がただよう赤い暖簾がひらひらと風になびく。開店時間になるころには、狭い店の前には次々と人が集まり行列ができる。

日々作る大福は1000個、毎日600個は店頭でさばき、有名デパートには日替わりで出店。その他、赤飯、みたらし団子、草餅、きび餅は定番で、季節によって違うお菓子も出る。
春は桜餅、鴬餅。お彼岸になればおはぎ。5月の端午の節句には、柏餅。それが終わると、草餅。夏は水ようかん。お彼岸のおはぎが終われば秋の風が吹き、栗蒸し羊羹の用意だ。
「まあ、お菓子で季節の先をいっているようなものでね」。店主の文屋弘さんはクシャっとなつっこい笑顔を見せた。

文屋さんは「松島屋」の3代目店主である。
初代の文屋さんの祖父惣治さんは、宮城県松島の出身で、故郷の名前をとって「松島屋」としたそうだ。昔のこととて、口減らしのような事情で上京。先に餅菓子屋を始めていたお兄さんに習い、開業。当初は恵比寿あたりに店を出したが、恵比寿は「水の便が悪かった」らしく、現在の地に居を移し、本格的に創業したのは大正7年のこと。創業101年となる。

「昔の人って努力家じゃないですか。おじいちゃんはとにかくまじめで、一生懸命な頑張り屋さん。昔だから薪をくべて、窯の火を起こし、あんこだって練り機じゃなくて、自分でえんまという棒を使って、練っていたんですねえ。商品には宮城県産のいいもち米を使っていたけれど、自分たちはソバの粉を練ったもので食いつなぎながら、少しずつ蓄財し、自分のお店をもったと聞いています」
小さいときから、お届けものをしたり、大福を丸めたりと店の手伝いをしながら大きくなり、店を共に盛り立ててきた弘さんにとって、父の死後に店を継ぐことにはなんの違和感もなかった。

「敷かれたレールにそのまま乗ってきたんだから僕は、苦労もしていないんですよ」と控えめに言う。

しかしそうだろうか。名の通った大きな老舗でも2代目3代目が経営を続けていくのは困難な時代だ。3代目でなお、小さな店を繁盛させていくのは並大抵のことではないだろう。この店が繁盛した理由のひとつには、高輪という地の利があったようだ。

文屋弘
東京都出身。昭和34年生まれ。泉岳寺の和菓子屋「松島屋」店主。

天皇陛下の愛した豆大福

松島屋のすぐ裏手には広大な高輪皇族邸がある。ここ高輪・泉岳寺あたりは、今でも下町的な雰囲気とお屋敷町の高貴な雰囲気が不思議に共存している地域だ。

昭和40年代。弘少年は、店の豆餅を持ち出して、ご近所に「豆餅でーす」と届けては上がり込んで遊び、ご飯まで食べて帰るということもしばしば。そんな「あまりものをやり取りするような下町の雰囲気」がある一方で、広大な高松宮邸が大きな存在でもあった。

高松宮は、昭和天皇の弟君である。高輪皇族邸には、大正時代には東宮御所が置かれ、皇太子時代の昭和天皇がお住まいになっていた。その後、1931年(昭和6年)から2004年(平成16年)まで高松宮と喜久子妃が住まわれた。(高松宮は、1987年(昭和62年)薨去)

「僕らが子どものころ、高松宮邸は、中に自由に入れたんですよ。自然がいっぱいの中、虫だのなんだの取り放題。自転車に乗って自由に走りまわることもできました。宮様にはお子様がいらっしゃらなくて、子どもたちに自由に自分の家を開放して遊ばせてくれたんです。そういう心の広い宮様の下で僕らは育ったんです。それはもう感謝しています」

少年時代の思い出だけではなく、さらに昭和天皇と高松宮様には「松島屋」にとって大きな恩がある。昭和天皇は、「松島屋」の大福をお気に召し、そのことが縁で高松宮も贔屓にしてくれたそうだ。昭和天皇は弟君に「ここの豆大福はおいしいよ」とおすすめになったのだろうか。ほほえましいエピソードだ。

「その後、高松宮様のお体が具合が悪くなった時に昭和天皇がお見舞いにいらっしゃいました。その時に喜久子妃殿下が、みんなで大福でも食べて、昔懐かしい話でもしましょうと言う機会を設けてくださいました。
うちは特別のモノを作っていたわけじゃないけれど、『陛下が食べた豆大福』という風に宣伝してもらう機会が多くて、次第に評判になり、そのおかげで現在があると思っています」。謙虚に語る文屋さんだ。
しかし、店の前に毎日行列ができる人気の秘密は、それだけではない。

朝4時作業開始。
蒸して搗いてちぎって丸める手作りの味

実際に松島屋の豆大福をいただいた。手に乗せればずっしりと重い。手触りはふうわりと柔らかく、ぎっしりとつまったあんこは甘すぎず、赤エンドウの味もしっかりとしていてうれしい。その日のうちに食べないと固くなってしまう昔ながらの豆大福だ。

この大福を作るために、松島屋では毎朝4時に作業が始まる。作業場は店の奥にあり、驚くほど狭いスペースだった。クーラーもない作業場は、夏場には40度以上になることも珍しくない。
「いやあ、キツイキツイ。40度もあるところで、焚火をやっているようなもんだからね。肉体労働でくたびれるし、でもこれがおいしいって人のためにやっているから、いいんじゃない」

前の晩からつけておいたお米を蒸篭にかけて、蒸す。もう一つの釜で小豆を煮て、あんこの準備だ。蒸しあがったもち米は、搗くのは機械だが、手水を入れて固さを調整していくのは、文屋さんの仕事だ。
搗き終わったもち米に、豆大福であれば別に蒸かしておいた赤エンドウを加え、作業台にどっさりと乗せる。手でちぎってそこにあんこを入れて丸めるのは、5,6人のスタッフ総出で行う。一つひとつ手作りの、心のこもった大福だ。
朝8時には、大福1000個が出来上がる。定番の大福3種類とみたらし団子、豆餅、赤飯に加え、季節限定のお菓子も並行して作る。取材時は栗蒸し羊羹を作っている時期で、毎日160本の栗蒸し羊羹が次々と作られているのだった。
「僕の代から、栗蒸羊羹と芋羊羹を始めました。毎日25キロくらいの生栗から仕立てているので、力仕事ですよ。喜んでもらえるから、だんだん量を増やしてきたけれど、これ以上はできないなあ」
栗蒸羊羹は、予約のみの受付で、取材時には1カ月以上先まで予約でいっぱいだった。

良い素材を使って一つひとつ丁寧に。
どこにも負けない豆大福を、作り続ける

10時の開店時には、すでに店の外には行列が並んでいるから、午前中は目の回る忙しさだ。作った大福はその日のうちに売り切る。
午後は、予約をしていた人が取りに来たり、散歩途中に立ち寄った人などが、次々と来店。お取りおき依頼の電話もひっきりなしに入って来る。翌日分の仕込みもある。

店は歩道に面してすぐ対面のスタイルだから、お客さんとの会話もはずむ。赤ちゃんをおぶった若い母親には「大きくなったねえ。ああ、いい子だ」と声をかける。そんなさりげない風景も、現代にあっては昔ながらの懐かしさを感じる。

客からは店の奥の仕事場まで丸見えで、菓子作りに精を出す店員たちの様子が手に取るようにわかる。「はいって来たお客さんには、全部見せる。そんな店構えだから、お客様も安心して食べられるんじゃないですか」

今は、コンビニなどでも安い大福がたくさん売られている時代だ。そこであえて機械化もせずに、手間暇をかけて昔ながらの大福を作っているのはなぜだろうか。

「コンビニの大福も、時代が求めるものだと思うんですよ」と文屋さん。「何日置いておいてもとりあえずおいしく食べられる。でも、それが嫌な人もいるじゃないですか。昔ながらのやり方がいいんだと。そういう人たちに喜んでもらえるものを、うちが作っていればいいんではないかな」
祖父の時のやり方を踏襲して作っていくということが、「松島屋」のサービスであり、プライドなのだ。文屋さんは柔らかな言い方ながら、そこにはゆるぎない意志を感じる。

「うちのような小さな店が残っていくためには、いかに、専門的な店をやるかが大事。大福専門店でいいんですよ。『大福だったら松島屋さんのだね』と言われるような、どこにも負けないような大福を作り続けること。そのためにはいい材料を使って、ちゃんと手作りで同じようにずっとやっていく。そうすれば残っていくと思うんです」

「松島屋」の豆大福は、もち米には、甘味と弾力のある宮城県のみやこがね。豆は、北海道の富良野産の、赤エンドウを使っている。あんこの素となる小豆は十勝産だ。「外国産のものは風味がないし、粒の大きい豆は風味も豊か。そのかわり値もはりますよ。でもいいものができてくるわけ」と胸を張る。

変わらないことに価値がある

現在パート従業員のほか、親せきの若い男性がふたり、文屋さんとともに店を切り盛りする。
「仕事は毎日楽しいです。自分でないとできない仕事だからという気持ちがします」と、テキパキと客応対をする傍ら、若者は言った。

創業101年。その年月は、子連れで大福を買いに来た人が亡くなり、幼かった子どもが結婚し、子どもをもうけ、大福を買いに来て、また亡くなり幼な子が大人になるという年月でもある。
「三代続けて、うちの大福を買っている人はたくさんいます。この大福がいいんだという人のために、これからも作っていきますよ」

絶えず変化を求め、市場の動向を察知し、流行を見据えてリサーチをし、ビジネスに生かすといったやり方がもてはやされる一方で、変わらないことの価値、愚直に一つのことにこだわる意味を、文屋さんは豆大福に乗せて教えてくれるようだ。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)

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