のらぼう菜の魅力を追求する。
より美味しく、より多く収穫するために

古代野菜の一種であるのらぼう菜をご存じだろうか。それほど知名度の高くないのらぼう菜を育て、長期にわたって収穫をする栽培のコツを編み出し、その魅力と栽培方法を広く伝えている髙橋さんにお話を伺った。そこには髙橋さんの努力、先見の明、広い知見はもちろんだが、妻である寛子さんのサポートも大きかった。

髙橋孝次(左)
神奈川県出身。昭和7年、川崎市多摩区菅で代々続く農家に生まれる。のらぼう菜を作り続けて70年。のらぼう菜で(公財)日本特産農産物協会による「地域特産物マイスター」に2015年度認定。菅のらぼう保存会会長。
髙橋寛子(右)東京都出身。昭和11年生まれ。

時代に合わせて果敢にチャレンジする農業

JR南武線「稲田堤」駅、または京王線「京王稲田堤」駅から10分足らず。川崎市多摩区菅あたりは、古く鎌倉時代にはすでに幕府の守りの砦として多くの人が移り住んでいたという。多摩川を隔てた向こう側は東京都だが、どこかのどかな空気が漂う。

髙橋さんは、今はのらぼう菜を専門に作る。1反の畑にびっしりとのらぼう菜を植え、3月上旬から5月までは、毎日収穫に忙しい。代々農家ではあったが、最初からのらぼう菜一筋だったわけではない。

のらぼう菜とは、元来、燈明の油をとるためにお寺やお宮の周囲で栽培されていたのではないかと髙橋さんは考えている。油をとるために栽培し、早春には自家用の野菜として食べていて、メインの作物というわけではなかった。

髙橋さんの子どものころは、稲作が主。裏作で麦を作っていた。17歳で農家を継ぐと決めてからは次第に梨や桃など手広く作るようになる。のらぼう菜は、自家用に少し栽培する程度。戦後は観光もぎ取りとしての梨栽培もおこなった。しかし、台風により全滅の憂き目にあう。

その後、世の中では食生活の改善が進み、1954年に養鶏を始める。
卵の値段は高く、よく売れた。しかし、髙橋さんは単価の高い時代が続くとは思えず、次の道を探っていた。果たして1964年に、卵の大暴落が始まり、さらには近隣の宅地化が進み、鶏糞の臭いなどに苦情が出るようになり、廃業を決意する。

影の功労者、寛子さん

お話を聞いていると、今までやっていたことをさっとやめ、次のチャレンジに移る髙橋さんの行動力、決断力が並ではないと感じる。
勉強家、読書家で、専門外の本でも幅広く読み、知見を積んで、次の時代の予測をたてる。ビジネス感覚が秀でているのだろう。
「(夫は)勉強の量はすごいの。本もいっぱい読んでいるしね。そこから予測を立てて、次に進むのね。あたしは読んでいる暇ないから、片付ける一方よ。本なんて読んでいたら夜が明けちゃう」と笑う。実は、髙橋さんがここまで自由に軽やかにチャレンジができるのは、妻である寛子さんの力が大きい。

寛子さんは、銀座4丁目の呉服屋の生まれだ。どことなく品があってパッと花が咲いたように明るく、かわいらしい女性だ。
髙橋さんとのなれそめは、第2次世界大戦の際のこと。呉服屋の娘、寛子さんが疎開した先が稲城市で、その近所に髙橋さんのお母さんの実家があった。そこで髙橋さんとお見合いをすることとなり、とんとん拍子に話は進んで結婚。以来、私生活でも仕事でも唯一無二のパートナーとして、髙橋さんを支えてきた。

性格は明るくて、働き者。「(夫は)ずっとひとつのものというよりは、スパっと決断してこれはだめだ。次はこれをやるって判断は自分でしていて、いっつも私に相談はなし」

髙橋さんが養鶏をやめ、次に挑戦をしたのは、シクラメンの栽培だった。1964年に園芸家としてスタート。さらに、しおれかけた鉢を預かって、元気にする「お花の病院」も開始。

シクラメンに夢中になり、シクラメン農家のところに手伝いに行って一日帰ってこない髙橋さん。鶏3000羽は世話を待っている。エサをやったり、卵とったりするのは当然寛子さんの肩にかかっていた。

それでも喧嘩にはならなかったそうだ。「だって忙しくて、喧嘩をしている暇ないのよ。あたしも、怒ったりしなかったよね。怒っている暇がないんだよ。とにかく仕事がいっぱいだから」と笑う。「そうだったね」と傍らで髙橋さんも笑う。

シクラメン農家に移行するために、徐々に鳥の数は減らしていくものの、完全な廃鶏をするまでには2年はかかった。

バブルがはじけるとシクラメンは次第に売れなくなり、再び野菜や果物を作りつつ、花と一緒に農協で売ることに。直売所で味のいいのらぼう菜がよく売れたことから、次第に脇役だったのらぼう菜に日が当たっていく。

のらぼう菜に特化。
画期的技術「深摘心」を編み出す

のらぼう菜が市場に出回らないのは、すぐにしおれてしまう欠点があったためだった。ただし、味はいい。髙橋さんは川崎市が「川崎ブランド」を作ることを知り、のらぼう菜をかわさき農産物ブランド「かわさきそだち」に登録することを要請し、認可を得た。さらに「菅のらぼう保存会」を会員21名で立ち上げる。会では栽培技術の研究やタネの比較栽培をして、優良系統を選んでいき、品質のいいのらぼう菜が確立されていった。

通常のらぼう菜は、秋に種を植え、2月下旬から収穫が始まり4月には次第に茎が細く固くなり、収穫を終える。しかし髙橋さんののらぼう菜は、5月上旬まで太くて甘いものが安定して収穫ができる。それには、髙橋さんが工夫したいくつかのポイントがあるが特に飛躍的に太くて多くの収穫ができるようになった技術が、「深摘芯」と呼ばれるものだ。

早い時期にかなり低い位置でざっくりと茎を切ってしまう。すると、そのわきにどんどん新しい芽が出てくる。まるで「なにくそ」とでもいうように。

この「深摘芯」が誕生したのは、偶然の産物だった。ある時、寛子さんがのらぼう菜をざっくりと低い位置で切りすぎてしまい、失敗したと思ったところ、2.3日するとまわりから新たに葉が出てきたのだった。収穫は1度で終わらず、2度3度と同じ株から収穫ができるようになった。

3月からの収穫の時期は忙しい。日に何回も畑と直売所を行き来して、トラックで髙橋さんが運んでくるのらぼう菜を、寛子さんが袋詰めをする。細い茎ははじき、上質のものだけ残す。商品の質を上げる管理にも、寛子さんの目利きが大きな役割を果たしている。

髙橋さんののらぼう菜は次第に有名になり、あちこちで声がかかり、栽培方法を広く伝えるようになった。

大学、行政、民間の人々、のらぼう菜で広がる輪

優れた技術を編み出している農家は、全国にもあまたいるが、地元の行政と大学が連携をしている例はあまりないという。川崎市は、のらぼう菜を市の野菜として後世に残したいと明治大学と神奈川県と研究を続け、「のらぼう菜栽培マニュアル」としてまとめたが、それは髙橋さんのノウハウなくしてはできなかった。

髙橋さんの人柄やのらぼう菜の味に惹かれ、さらに人の輪は広がった。
大学はのらぼう菜の研究を続け、行政は川崎を代表するのらぼう菜に力を入れた。民間のさまざまな人たちは、のらぼう菜を愛し、お浸し、胡麻和え、てんぷらにとどまらない新しいレシピを開発しては髙橋さんに報告しに来る。生でポリポリ食べてみる。ベーグルにはさんでみる。ジェノベーゼ、ピザ、カレー、キムチ、様々な人たちの口コミでここ数年で食べ方も広まってきた。

髙橋さんは、そんな報告を聞くといつもニコニコして「食文化が広がってすごくうれしい」と受け入れる。栽培方法も教えてほしいと言われれば、だれにでも惜しみなく与える。
「うちには企業秘密なんてないもの」と寛子さんも胸を張る。
のらぼう菜をちゃんと育てて収穫し、おいしく食べてもらうためには、なんでもするという姿勢が夫婦に貫かれている。

食農教育で、のらぼう菜の魅力を未来へ伝える

さらに、髙橋さんの大きな生きがいは、のらぼう菜の魅力を子どもたちに広めることである。小中学校へ赴いての食農教育授業は、もう20年も続いている。「のらぼう菜の栽培技術を教えるのではないんです。大事なのは野菜にも個性があり、土と水と太陽の光を吸収して成長し、それをいただいて自分たちも成長すること。その心を子どもたちに伝えています」と髙橋さんは言う。

対象は主に小学2年生だ。夏まではトマト、ナスなどの夏野菜の栽培を教える。秋になるとのらぼう菜を植え、3月に収穫し、3年生になってタネを採り、秋に油搾りをするという1年がかりの授業だ。

まずは、のらぼう菜の苗を持ち込み、野菜を育てる大切さを教える。当日の苗の下準備は、寛子さんの仕事だ。150個苗が必要ですと言われれば、前日にそれをそろえて、水をやり、トラックに乗せて、すぐに髙橋さんが出発できるように整える。

のらぼう菜は、前述したように昔は明かりを取る油として使われていた。菅地域でも、油屋(搾油所)はたくさんあったものの、電気の普及で消えつつあった。1970年に髙橋さんは残り少ない油屋から油搾りの技術を教えてもらい、油搾り機の仕組みも学び、知り合いに作ってもらった。それを授業で活用する。こういった昔の機械や作り方を残すべく、自宅の一角には「菅郷土資料館」まで作ってしまった。

スイッチひとつで明かりがつく生活に、子どもたちばかりか親の世代も慣れ切っているから、小さな明かりがともるまで、どれほど大変かを知らない。また電気の明かりを人類が享受できるようになったのは、たかだか150年ほどであることを知ると、子どもたちは目を丸くして驚き、ようやく灯がともると歓声があがり、多くの感動を呼ぶという。

髙橋さんはのらぼう菜の授業の最後に、子どもたち一人ひとりに、A5サイズに書かれた言葉を手渡す。その言葉は髙橋さん自身の言葉だけではなく、新聞や本を読んで少しずつ書き溜めておいたもの。ノーベル賞受賞者の言葉など、シンプルで力強い言葉は、まっすぐに子どもたちの心に届くようだ。

のらぼう菜とともに。人とともに。

髙橋さんはいわば社長、営業部長、企画部長として前を向いて歩いてきた。経理部長、広報部長、管理部長として後始末をしながら寛子さんが後を追う。二人三脚で歩み、のらぼう菜を知り尽くし、魅力を広めるという活動に、料理好きな人、おいしいもの好きな人、農業に携わる人や子どもたちが次第に引き寄せられて、大きな輪ができている。

長く、のらぼう菜とともに都市農業と生きぬいてきた髙橋さんは、数年前から今まで培ったのらぼう菜の栽培技術を、文字と文章で残したいと考えていた。2020年9月「のらぼう菜 太茎多収のコツ」(農文協)でその夢はかなった。
「最高に幸せ」。それが本を出版した髙橋さんの今の気持ちだ。

   

(お知らせ)
髙橋孝次さんは、本記事を取材させていただいた後、2020年12月に急逝されました。在りし日のお姿を偲び、心よりご冥福をお祈り申しあげます。    

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)

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