一人ひとりに感謝をこめて
一杯のカクテルを丁寧に作る

30年以上前に、日本で初めて、テイスト&テクニック部門で世界一となったバーテンダー毛利隆雄さん。今も現役で銀座の店に立つ。「技術は神様。人柄は仏様」と弟子たちに言わしめる伝説のバーテンダーに、その技術と心について伺った。

毛利隆雄
「MORI BAR」「MORI BAR GRAN」バーテンダー。1947(昭和22)年生まれ。福岡県出身。1984年、85年にカクテルコンペで全日本1位。1987年に世界大会でテイスト&テクニックの2部門で最高得点を獲得。後進の育成にも力を注いでいる。

野球青年、バーテンダーになる

銀座7丁目のとあるビルのエレベーターを上がり、そのバーの扉を開けると、やわらかな照明とともに心地よいジャズとスタッフの笑顔が出迎えてくれた。

そのバーは「MORI BAR」。世界的に有名な伝説のバーテンダー毛利さんの店である。国内だけではなく、世界中から毛利さんのマティーニを飲むために多くの人が店を訪れる。

一方で、技術を自分だけのものとせず、後進の育成に力を注ぎ、「技術は神様。人柄は仏様」と言われる。スタッフを一から育てて、独立したいと言われれば、細かく面倒をみる。アドバイスをしてほしいと門戸を叩かれれば、親身になって教える。大会の前には、多くのバーテンダーが教えを請いに来て、その中から日本一に輝いた人も少なくない。
また、今でも毎年行われる「毛利会」では、常に50~60人の弟子を中心に多くの人が集まり、毛利さんと旧交を温め合う。

毛利さんは、長い間お酒が飲めなかったという。それなのに、なぜバーテンダーを目指すことになったのだろうか。

福岡で生まれ育った毛利さんは、野球少年だった。甲子園を目指す高校に入ったが、最後の夏の大会では残念ながらもう一歩のところで甲子園出場はかなわなかった。相手は後年ヤクルトで活躍する安田投手を擁する小倉高校。その小倉高校を下した三池工業は、甲子園初出場で全国制覇を成し遂げた。三池の監督は、現読売ジャイアンツの監督・原辰徳氏の父、原貢氏である。ずいぶんと強豪チームひしめく地域だったことがうかがえる。

その腕を認められ上京し、ノンプロを目指す会社に入社したものの2年で退社。大学に入りなおす。学費を捻出するために始めたアルバイト先が東京會舘だった。バーテンダーの基礎となるべき多くの部分をここで学ぶ。

ほんの腰かけのアルバイトのつもりだったが、あるとき職場で野球大会があり、ピッチャーとして活躍した毛利さんにほれこんだバーのチーフに「うちに来い」と言われて働くようになった。それが世界的に有名なバーテンダーとなるきっかけだ。

バーテンダー世界大会で優勝。天職と悟る

「自分にもっと合う仕事があれば、いつでもバーテンダーをやめよう」と毛利さんは考えていた。一生の仕事と考えるようになったきっかけは、1984年、1985年に全日本バーテンダー協会が主催する「カクテル・コンペティション」の日本大会で優勝したことと、その結果世界大会に出る権利を得、1987年ローマで行われた世界大会で味と技術の得点で世界一になったことだった。バーテンダーとなってからすでに15年ほどの年月がたっていた。

「僕は酒が飲めなかったので、自分でバーテンダーに向いているとは思っていなかったんですね。でもまあ、だらだらとこの世界にいて、押し出されるように大会に出たら、いい成績となり、意識が変わりました。実は、1983年に初めて出場したときには関東大会でわずかな差で2位となり、1位の人が全国大会で優勝したんですよ。負けず嫌いなもので、次の年にまたチャレンジして優勝したんです」と訥々とつとつ と語る。

わずかな差で全国大会を逃したとき、毛利さんは甲子園に行けなかった高校生のときのことを思いだしたのかもしれない。負けず嫌いの血が騒ぎ、ついに日本一となり、世界大会出場の切符をつかんだ。

世界一になり、「毛利に追いつけ、追い越せ」と追われる立場になってからは、バーテンダーを一生の職業とすることに迷いはなかった。「世界一」という座に甘んじることなく、さらにマティーニを追求したいという新しい目標に向かって突き進んでいく。

もっとマティーニを極めたい。毛利マティーニの誕生

毛利さんは理想的なマティーニのためには、今までとは違うジンが必要だと考えた。「もっとコクがあって、深みがあって、甘味があるジン」を手を尽くして探し続け、やっと手に入れたブードルス・ジンを元に、試行錯誤の上に作り上げたのが「毛利マティーニ」と呼ばれる逸品だ。

通常のマティーニは、常温のジンを氷をステアして冷やしていくものだが、毛利さんの師である今井清さんはジン自体を冷蔵庫に入れ、ジン自体のうまさを残しつつ、キリッと冷たいマティーニを、世界で初めて作った。毛利さんはさらにマイナス20度まで冷やしたジンを、ステアと氷でマイナス6度にまで温度を上昇させることで、よりやわらかく、芳醇なカクテルにした。ジンのおいしさを目覚めさせるために100回のステアが必要となる。「氷であたためる」というコロンブスの卵的発想が世界を驚かせた。

その後、おいしいラムでマティーニを作ってほしいと常連客に言われたことがきっかけとなり、作ったのが「ハバナマティーニ」。大量に売れ残ったと泣きついてきた客から引き取ったハバナクラブ7年というラム酒を使って作ったものだった。日本にあるドライシェリーをかたっぱしから集めて、分量、温度、酒の相性などを微調整しながら、1か月かけて完成した。ラムは甘味があり、重いので常温でステア100回。オンザロックで。これが、毛利さんが生み出したもう一つの逸品「ハバナマティーニ」である。

流れるような美しい手の動きと味で、客を魅了する

柔らかな笑顔で話してくれた毛利さんだが、カウンターの中に入り、お酒を作るときだけは顔がひゅっと引き締まった。毛利マティーニを作るときのことだ。

落ち着き払い、手慣れた様子でミキシンググラスに氷を数個。水を入れゆるやかにステアし、氷の角をとって、水を捨てる。オレンジビターズをほんの一滴、ジン(季の美毛利)とベルモットをミキシンググラスに入れて50回ステア。酒の量は目分量だがピタリと決まる。
ステアというのは、カクテルを作るときにバー・スプーンでかき混ぜるやりかたである。
中指と薬指でバー・スプーンを挟み、クルクルとかき回すステアは、一見地味だがアクションが派手なシェイキングより習得はむずかしいという。毛利さんは20年間毎日ステアの練習をしすぎて、腱鞘炎まで起こしたとか。

ステアをすることで、氷と氷を静かに回転させ、材料をむらなく適温にして、一番おいしい状態へ覚醒させていく。

客は、爪の先まできれいに磨き整えられたバーテンダーの手の美しい動きにただただ見とれるばかりだ。

冷えたグラスに、ピックに刺したオリーブをひとつ沈めて、完成したマティーニをトロリと入れる。レモンの皮をキュッとひねって香りをつけ、オリーブを脇に添える。流れるような一連の動作は、見るものを惹きつけてやまない。まさにショーだ。

「季の美毛利」は、ブードルス・ジンを作ったブレンダーのコリン・スコット氏から譲り受けたレシピを元に、作っているジン。ブレンダーがレシピを個人に譲るなどは、ありえないことだが、コリン・スコット氏は、毛利さんが長年ブードルス・ジンを使ってくれたことに敬意を表して譲ってくれたという。現在、「季の美毛利」は、毛利さんと毛利さんの弟子の店だけにしか置いていない。

コースターを置き、すっと客の前に出されたカクテルは、グラスとの調和も芸術的で美しい。一口飲めば強い酒であるのに、のどが焼けるようにならず、スーッと優しい。温度のムラがなく、全体的にとろけるようだ。 「カクテルというのは、バランスがすべて。ドライでも甘くてもバランスが良ければスーッと飲めるが、少しでもバランスが悪いとそうはいかないんです」
再び、柔らかな笑顔に戻る。

どんな人とも対等に対峙。こんなにいい仕事はない

毛利さんは、その一流の技術で世界にその名をとどろかせた。しかし、彼の魅力は技術だけではない。

「お酒を美味しく作るのは、バーテンダーとしてはあたり前なんです。一番大事なのは接客です」

昔は、バーテンダーの地位も低かったのだろう。「バーテン」と言われ、お客様には自分から話しかけるなと教えられた。「聞き上手になれ。自分から話しかけるな。お客さまがしゃべらない限りはしゃべらなくていいと言われました。今は、お客様の様子を見つつ、こちらからもいろいろとお聞きしています」

もし、お酒が飲めて、バーテンダーとしての強い野心が、若いころにあったとしたら。と毛利さんは時々考える。
目の前の客に心を向けることなく、バーテンダーとしての技術を磨くことにばかり夢中になっていたかもしれない。事実、そんなバーテンダーも少なくない。

今ではすっかりお酒が好きになった毛利さんだが、若い時分はお酒が飲めないがゆえに、かえってカクテル作りにも真摯にお客様の声に耳を傾けることができた。目の前のお客様の喜ぶ顔が見たくて、一つ一つの学ぶ機会に感謝を重ねてきた。

バーテンダーという仕事について、どう思っているのか伺うと
「めちゃくちゃいい仕事ですよ」と毛利さんは目を細める。「自分が作ったものが、すぐに評価される。いろいろな方に出会える。こんないい仕事はないぞと弟子たちにも言うんです」

お客様に楽しんでもらう。我々バーテンダーもいっしょに楽しむ。バーテンダーをそういう職業にしたかった。だから、おいしい酒を作り、客と話し、ともに飲み(ただし、酔っぱらわない)、楽しい時間を共有する。時には悲しい時間を分け合うことも。

客がどんなに有名でも偉い人でも、一杯のカクテルを通じて心を通わせることができる。仲良くなれる。長い年月の間には様々な苦労はあったが、その積み重ねの上にある毎日は楽しい。

多くの人との出会いがあったが、とりわけうれしかったのは王貞治会長との出会いだという。店には、王会長とのツーショットの写真と、送られたサイン入りバットが大切に飾られている。子どもの時からあこがれていた王会長が店に来てくれるようになったことが「バーテンダーになって一番うれしいことかな」と、ちょっぴり照れながら笑った。

今はコロナ禍で、王会長もなかなか来店できずにいるが、またフラリと来てくれることを心待ちにしている。

感謝の果てに、幸せがある

銀座の街に灯が灯るころ、今日もMORI BARのドアを開けて、様々な人が入ってくる。
目の前の人のために、感謝を込めて丁寧にカクテルを作る。今日も、そして明日も。それが毛利さんの幸せだ。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)

TOPにもどる

トップへ戻る