木と対話し、木の良さを最大限生かし、
最高のギターを作る

楽器屋を営んで58年。都内の楽器屋が次々と閉店を余儀なくされる中、一人で切り盛りしてきて店を守ってきた。そのこだわりと、志について店主花村さんに伺った。

58年ひとりで守る手作り楽器の店

京王線と井の頭線が交わる明大前駅から徒歩2分。昔ながらの商店街すずらん通りの中ほどに、古びた店構えの「手造り楽器の店 ハナムラ楽器」がある。
間口は1間ほどしかなく、よほど気を付けていないと通り過ぎてしまいそうだ。「エレキギター、ベース、フォークギター、ウクレレ、民族調楽器、注文製作いたします」と書いてある木の板は、半分ちぎれていた。

ガラガラと引き戸を開けて入ると、ほこりをかぶって無造作に置いてある打楽器、天井近くからぶら下がっているギター、床に置いてある見たこともない楽器、右手のガラス棚の中には何やら小さな部品、そして左手奥には木材が所狭しと積んであり、そうでなくても狭い店内は、さらに混沌としている。奥には、作業台が一つ。

「えー。いらっしゃい」。中から顔を出してくれたのは、今回ご紹介する花村さん。若々しさに、まず驚く。口角がキュッとあがっていて、常に笑顔だ。

花村さんは現在81歳。昭和12年生まれだ。ここで、たった一人で「ハナムラ楽器」を営んで58年になる。「楽器の注文制作・修理・世界にない楽器の制作」がその業務内容である。

花村芳範
昭和12年生まれ。長野県出身。昭和35年より花村楽器店店主。単板一枚板でのギター制作・楽器修理、および世界に一つだけの楽器の制作にこだわる。

木を生かし、木からとったラッカーで塗り、
草木染料で染める

ギターはすべて単板一枚板で作っている。
それには少々説明が必要だろう。ギターという楽器は、表面と裏面と横面の板が貼りあわさったボディーにネックと呼ばれる部分がついてできている。今では多くが合板で、薄い板を接着剤で貼りあわせた合板に、ポリウレタンで塗装している。安価なものになると、合板どころか段ボールのような紙でできているものもあるという。かなり高価と言われるものでも、ボディ中央で2枚の板が継いであり、花村さんのギターのように単板一枚板で作られたものはめったにない。というか、花村さん曰く「ない」。板自体が手に入らないのだ。

一般的には、合板は安価であり、耐久性があることにメリットがあると言われている。単板一枚板で作られたギターは、木が反ったり割れたりするため、保管をするときには弦を緩めたり、乾燥材を入れたりするといった手入れが必要だとされる。

ところが、花村さんの作るギターはその常識を覆す。

花村さんは40歳になるまでに多くの板を手に入れた。いい板というのはいつでもすぐに手に入るものではない。時間をかけて人的ネットワークを広げて、いい板が入ったよと聞けば購入するといったやり方で、時間と手間をかけて集めてきた。その結果、現在でもこの店の中には多くの板が、その出番や遅しと待ち構えているのだ。今ではもう世界中探してもなかなか良質の板は出てこないから、花村さんが所有する板はとても貴重だ。さらに30年、40年、50年と寝かせてきているため、しっかりと乾燥し、ヤニすら浮いている。今さら割れたり反ったりしない。だから、いちいち使用後に弦を緩める必要もない。ひょいと壁にぶら下げていたギターを出して、花村さんはさらりと1曲歌いながら弾いてみせた。

「単板一枚板のギターは、弦を緩めるとか乾燥材を入れろとかいうのは、昨日切ってきたような板を使うからでね。うちのは50年も寝かせているからね、ハイ大丈夫なんですよ」。

合板は、安価にできるが合板同士を接着すること、さらに、傷をつけにくくするために上にポリウレタンを塗料として塗るために、どうしても音の響きが悪くなってしまう。それに対して花村さんのギターは、セルローズラッカーという木からとったラッカーを塗る。

「木だけ叩いてごらん。ほら、木ってコンコンってこんなにいい音がする。でも、ぎゅっとこの木を握って叩けば、カチカチとなって響かないでしょう?合板というのはそういうこと」

さらに、花村さんの楽器は草木染で色を付ける。「草木で染めると、地味だけれど飽きないですよ」。木を生かし、木からとったラッカーで塗り、草木からできた染料で染める。「木を生かすってこういうことじゃない? 板を合わせたりつないだりするのは、長嶋の手と王の足で野球をするようなものじゃない?それじゃ野球はできないでしょ」

こうして「木」であることを最大限に生かしたギターは、素人でもわかるほど音がいい。そして、軽い。

ビーン
指でつま弾けば、音は共鳴して飛び出してくるようだ。

あの音が聞きたい。音に対するこだわりから独立

花村さんは、なぜ、そこまでこだわる楽器を作ることになったのだろうか。

大学を卒業後、花村さんが就職したのは銀座の山野楽器だった。1950年代の楽器は、どれもとてもいい音がしたという。ところが、1960年代になり、アメリカから輸入されてくるギターの音が悪くなってきた。
カチンカチンと音がこもって響かない。重ねられている合板、合板の中に使われる接着剤、表面の塗料に使われるポリウレタン、これらの影響で、楽器の音は本来の良い音を失ってしまったという。

そのため、花村さんは自分で納得のいく楽器を作ってみようと考えるようになる。それが、3年で山野楽器を退職する理由の一つとなった。

明大前に店を構え、最初は楽器の仕入れからスタート。次第に、自分の好きな楽器を作るようになった。
「単板一枚板でできるギターっていうのはね、家にたとえてみるとわかりやすいと思う。メーカーはきれいな建売住宅を作るが、10年も経つと、作りが悪ければがたがたしてきちゃう。僕は、法隆寺や東大寺を作っているようなもの。1300年持ちますからね、そこの違いですよ。はっはっは」

注文を受ければ、どういう楽器が欲しいのかやり取りをしつつ、2カ月ほど「己の身を削って」楽器を作る。できた楽器は「あなたが死んだら、子ども、孫に残してあげてね。法隆寺とおんなじだからさ。ずっと弾けるよ」と言って手渡す。花村さんの楽器は一生ものだが、一つ作ってもらうと、みなまた欲しくなると見えて、90%がリピーターだそうだ。

単板一枚板から生まれる
震える音、揺れる音、響く音

ギターを手に、ビーン。ひとつ音を出した。「ああ。気持ちがいい」と花村さん。木と木が共鳴し合って飛び出てくるような「一音」が好きだという。
「僕は複雑に重なる音ではなく、一音が好きなんです。ビーンと響く音が聞ければそれでいいんです」

花村さんは、どんな一音を出したいのだろうか。
ギターでいえば、一番高い音は、お経を読むときのおりんの音が理想だという。通常のギターがチーンという音であれば、花村さんが目指すおりんの音はちりりりーんと響いて揺れる音だ。一方低い音は、お寺の鐘の音を出したい。単純にゴーンではなくて、少し揺れる音。それを出したいんですよと花村さん。

「今の世の中って、ちょっと変になっている。それはデジタルな音であふれているからじゃないかなあ。少しは12音階にとらわれないアナログな音に耳をすませてほしいんですよ」。

花村さんは子どものころ、嫌なことがあると山に入り松の木が風にそよぐ音を聞いて、心を落ち着かせた。「サワサワシャーッ、シャーッという音、あれを聞くと本当に気持ちがよかったね」。いつだって心を落ち着かせるのは、単調な人口音ではなく、複雑に響く自然の音なのだ。

世界にひとつしかない楽器で、
世界一の演奏者になる

ギター作りのほか、花村さんが手がけているのは個性的な楽器の制作だ。店内には、コロコロところがるように、洗剤の箱で作ったギター、お経を唱えるときの音楽が様々に出てくるお経マシーン、子どもでも持てるような小さな3弦弦楽器やウクレレなど、思わず手に取ってみたくなるような風変りな楽器がたくさんある。

なぜ、このようなオリジナル楽器を作るようになったのだろう?
「それはね、三味線とかバイオリンとか、伝統のある楽器って、弾くと『ああ違う!』って怒られるでしょう。『指が違う』とか、『それじゃだめ』とか。ギターだってそうでしょう。すぐおせっかい屋が何か言ってくる。でも、世界に一つしかない楽器なら、誰にも何も言わせないですむでしょう。その楽器の世界一の弾き手になれるわけよ。はっはっは」

本来、人は何かをたたいたり、はじいたりすることで音を奏でる喜びを知ったはずだ。それが、「伝統」やら「家元」といった少々面倒なもののおかげで、その喜びまで到達できずに終わってしまう人も多い。それはどうもおもしろくない。そこで、世界でたった一つの楽器を、花村さんは作るようになった。時には自分のストレス解消のために。時には注文を受けて、誰かのために。時には、心が疲れて助けを求めてくる人のために。

弱者に寄り添い、市井に生きる

花村さんは権威や組織が大嫌いだ。人のやっていることと同じことは意地でもやらない。「個性が強すぎるから、みんなと協力するのもへたくそだ」と言って笑う。だからずっと一人で店を守ってきたし、これからもそのつもりだ。けれども人間嫌いでも偏屈でもない。
ユニークで自由なモノの見方は、父から影響を受けた。10円玉は丸いが横から見れば長四角。扇風機の羽は右回りだが、後ろから見れば左回り。常に斜に構えて世の中を観ることで、物事の本質が見えてくる。

花村さんの店に来るお客は、元気な人ばかりではない。精神的に疲れた人もやってくる。

ある時は人生相談にのり、ある時は共に楽器の奏でる音に耳をすませ、ある時は共に奏でる。そして再びひとりで作業台に向かい、楽器を作る。

都会の真ん中の小さな店は、何百年も前から生きている木と花村さんの優しいオーラが満ちていた。

(取材・文 宗像陽子 写真 金田邦男)

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