花の育成を生業とし、趣味と実益を兼ねつつ
人生を楽しむ
シクラメンをはじめとし、鉢物や花壇の苗を中心に育ててきた園芸農家の鈴木さん。今では、大型ハウスが20数棟並ぶ広大な敷地の中で、毎日花づくりに精を出す。花が好きで、多趣味で、海外にも目を向け、常に前向きな鈴木さんに話を聞いた。

昭和25(1950)年生まれ。栃木県出身。大田原園芸代表。鉢物、花壇苗、野菜苗を各種生産している。
あこがれの地、アメリカで園芸を学ぶ
緑鮮やかな田園風景。遠くには那須連山に連なる山々が見え、遮るもののない空は広い。鈴木さんは栃木県で、先祖代々続く農家の3人兄妹の長男として昭和25(1950)年に生まれた。
近くには小さな山があり恰好の遊び場所だったから、自然の中での遊びには事欠かなかった。虫や鳥をおいかけているだけではない。好奇心はいつも旺盛で、畑の手伝いと言っては、小学校のころからラビットスクーターに乗ってみたり、いつもドライバーを持ち歩いて、機械を見ればなんでも壊して歩くようなやんちゃな少年だった。
自然の中でおおらかに育った鈴木さんは、空を眺めるのが好きで、パイロットになるのが夢だった。
鈴木さんは戦争を知らない。周りの大人たちは多かれ少なかれ、戦争の傷跡を心に抱えていた。しかしラジオをつければジャズ音楽が流れ、洋画を見ればそこには華やかな世界がある。自由な文化を見せてくれるアメリカに、鈴木さんは興味がわいていた。戦争で、日本に勝ったアメリカとは一体どんな国なのか。鈴木さんは英語の勉強を怠りなく続けつつ、アメリカへの好奇心を止めることができなかった。
パイロットになる夢は、目が悪いため断念せざるを得ず、親の後を継ぐべく栃木県農業短期大学校に進む。2年で修了後、国が費用を負担する農業研修生として2年間渡米する。
渡米後、6カ月間大学で研修を受け、その後は農場で働く。鈴木さんはその制度の5回生、187名のうちのひとりとして、昭和45(1970)年にアメリカに渡ったのだった。
アメリカのシアトルに降り立った鈴木さんは、そのスケールの大きさに驚く。
「よくもまあ、こんな大きな国と戦ったなというのが最初の印象でした」と笑う。
鈴木さんは、研修の後、シアトルの北部にあった造園業を営む農場で働くこととなった。
農場で働き、花や野菜の専門的な知識を身につけつつ、週に一度はシアトルにある大富豪の家の庭の手入れをしに行く。
新しい知識や技術を身につける喜び、日本にはない花や野菜の魅力、懐の深いアメリカという国自体の魅力、何もかも光り輝いていた。「日本人には、先天的に繊細な庭の手入れの能力がある」と言われたことも、誇らしかった。
「楽しくてしょうがなかったですね」と当時を思い出し、鈴木さんは目を細める。
貧乏留学生(?)だった鈴木さんたちを見かねてか、ホームステイを申し出てくれたところもあり、アメリカの家庭に触れ、恩義を感じるきっかけにもなった。後年、鈴木さん自身が海外の研修生を受け入れて、国際交流に貢献するようになったのは、このときにお世話になった人たちへの恩返しの気持ちが少なからずある。
本格的にシクラメンを作り始める
昭和45(1970)年、日本では米の生産を抑制するために減反政策が始まった。どの農家でも作付面積を削減するために、家業をどのように展開していくか考えていかなければならなかった。鈴木さんの父親は、鶏や牛を飼ったりしいたけを作ったりと、複合経営を続けながら、試行錯誤をしているところだった。
しかし、帰国した鈴木さんの気持ちは、すでに決まっていた。
「好きなのは花だ。これからは花で行こう」。父親の同意も得られ、昭和48(1973)年より、いよいよ田んぼに100坪の温室を建て、シクラメンの育成を始めた。
シクラメンは、今でこそ栃木県の名産品のひとつとなっているが、当時はまだ手掛ける農家は少なかったという。
努力を惜しまず。あとはお天道様次第
花は生ものであるが故、天変地異やその年の環境によって出来不出来が左右される。春一番の山からの吹きおろしの風は強いし、暖冬や冷夏のあおりも受ける。景気の影響も受けやすい。
最近の「うまくいかなかったこと」を聞くと、鈴木さんは、前年のガーデンマームという菊の鉢作りを例に挙げた。
梅雨の時期に寒い日が続いた。日照不足と低温で早生の品種は秋の到来と感じて、花をつけてしまった。一方で晩生の品種は涼しいためゆっくり育ち、株は大きくなりすぎてしまった。「その前の年はうまくいったんですが」と鈴木さん。今年はコロナウイルスでどれほどの影響が出るか、まだ不透明だ。
しかし鈴木さんは、どんな大変なことも「大したことはないですよ」とにこやかに笑う。その理由は二つあった。
ひとつは、事業を始めた初年度に受けた石油ショックが、その後に直面したどんなことよりも乗り越えるには大変だったと感じているからだ。
「石油ショックで最初に頭をガツンと叩かれました。あの経験があったから、その後、どんなことがあっても、その時の経験が役立ちましたねえ」

もう一つは、長年の経験から到達した「お天道様次第だからねえ」という、気持ちの在り方だ。
好奇心という宝を胸に、小さな工夫と大きな判断を日々続けて、家族とパート15名ほどでより良い花を作り続けてきた。
水やり、日照時間、日差しの強さ、風の強さ、温度を調整し、ハウス内を常により快適な環境に保ち、花々を育ててきた。できることは何でもする。手作業をおしまず作った方がよいものもあれば、一気に機械に頼ったほうがよいものもある。

生花、種苗の展示会であれば、いいものを人よりも早く取り入れるよう努め、園芸用の機械で「これは!」と思うものがあれば、取り入れて使いやすいよう変えていく。
農業用機器を製造する会社を経営していた親せきに声をかけ、園芸関係の作業工程を効率化する機械をいくつも作った。たとえばポットにサクサクと土を詰める機械や移植する機械などを作り、大きく効率化に貢献した。
微に入り細を穿ち、工夫し努力しても、報われないこともある。そのことを常に心のどこかに置いておくことで「今年が最悪だなと思うと、また次の年に最悪になることもありますよ」と笑いながら言える余裕が生まれる。
鈴木さんには、「努力はするけれど、最後はもうお天道様次第だからねえ」という、どこか、肝の据わったところがある。そこには、どんなことが起ころうとも、そのものを受け入れて楽しんでさえいる明るさが感じられる。
「花が好きですからね。そして、この言葉です」と指さす方を見ると、ダーウィンの言葉が太く大書されて、額に飾ってあった。
「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き延びることができるのは、変化できる者である」
花でも特に鉢物は、かけ合わせ、試し、取り入れて様々に変化をさせることができる。鈴木さんは、手掛けた花の中でもサイネリアで、オリジナルの色を作り出すことに成功した。様々な色の中から20年以上かけて、結実した色だ。工夫し、コントロールし、試し、失敗する。同じようでいつも違う相手に向かい続けること。そんな仕事が自分には合っていると強く感じている。

「シクラメンのかほり」で挽回。
花壇文化も根付き、追い風に
さて、昭和に話を戻そう。当初は、シクラメンの認知度も低く、あまり需要もなく、さらに石油ショックという痛手。その後なんとか立ち直ることができたのは、ある歌のおかげであった。
布施明が歌う「シクラメンのかほり」が世に出たのは昭和50(1975)年。この歌で一気に世間にシクラメンが認知され、売れるようになった。その後は順調にハウスを増設。サイネリア、プリムラなどを手掛け、3000坪の敷地に建てられたハウスには色とりどりの花が咲き乱れるようになった。
平成2(1990)年に開かれた大阪の花博覧会を機に需要が増えた花壇の苗も、生産を始めた。それまでは売れる花といえば、切り花ばかりだった日本の園芸界は、こうして徐々に景色を変えてきた。アメリカ仕込みの鈴木さんに、国内がようやく追いついてきたのかもしれない。
国際交流で貢献
鈴木さんと海外との縁は、農業研修生としてアメリカに行ったときに始まったことは前述した。その後も、アメリカ、ドイツ、オランダなどで行われている展示会に積極的に出かけたり、農業研修の視察などを通して、海外には多く足を運ぶことになる。そしてまた、日本に来る外国人の世話をしたり、ASEANの農業研修生を受け入れるなど、国際交流で貢献もするようになった。
タイ、ドイツ、中国と様々な国の人間を受け入れ、またこれから海外に研修に行く人を、2,3カ月受け入れているのも「常に世界を意識した経営センスこそ、必要だ」と鈴木さんが感じているからだ。
仕事で観光を兼ね、あるいは休養を目的として、今までに40か国以上の国を旅してきた。今年はすでにエジプトに旅行をしてきた。これから行きたいところを聞くと「マダガスカル、インカ、イエメンのソコトラ島もいいな。中央アジアもいってみたい場所ですね」と目が輝く。好きな国はやはり花の国、オランダだ。

モットーは「人生を楽しく」
「海外の人は、クリスマスを楽しみ、その時に来年どこに旅行に行こうかという計画をみんなでたてるんですよ。そして、それを楽しみに働く。日本人はダラダラと働きがちですが、遊ぶときは遊ぶ。働くときは働くというメリハリは、日本人は見習ってもいいと思います。だから自分も休むときはしっかり休みます(笑)」
旅のお供に欠かせないカメラの腕は、すでにプロ級。実は、スキーやパラグライダーもいまだに現役だ。映画鑑賞も好きだし、音楽であればジャズについては一家言をもつ。
これからは、うまく3人の息子に家業を譲っていきながら、海外旅行をしつつ趣味を楽しむこと。
それが「人生を楽しく」という鈴木さんのモットーのゴールでもある。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)
