自然由来の材料のみを使い、
本物の藍染の艶と深みを追求する

古来より藍染は日本人に愛されてきた。しかし現在昔ながらの染め方をしている工房は全体の数パーセントに過ぎないという。今回は、あえて手間もコストもかかる製法にこだわっている藍染工房「壺草苑」の村田さんに、お話を伺った。

村田徳行
昭和35年生まれ。東京都青梅市出身。江戸時代から継承される製法「天然藍灰汁醗酵建て」で藍染をする「壺草苑」工房長。

きっかけは青梅嶋の再現

東京都の西部に位置する青梅に降り立つと、緑が濃く、風が心地よい。目指す「壺草苑」の敷地には、濃淡さまざまな藍色に染まった布が物干し竿いっぱいに風にたなびいていた。

鎌倉時代にはすでに織物の町として栄えていた青梅。江戸時代になると青梅独自の「青梅嶋」を開発し、大ヒットしたという。当時、武士以外は絹を身につけることを禁じられていたが、青梅嶋は綿の中に10%ほど絹を織りこむ粋な織物。そこで、町人、芸者、歌舞伎役者などは大いに喜び、その時代の「粋でおしゃれな最先端のブランド品」となった。有名な東海道五十三次の弥次さん喜多さんも青梅嶋を着て京都まで行った様子が書かれるなど多くの文献にその存在が記されている。ところが、粗製乱造がたたり、青梅嶋は明治時代になると途絶えてしまう。

村田さんの生家である「村田染工」は、織物業の下請けである染物業として、大正6年に創業した。村田さんが生まれた昭和30年代の青梅は、布団地、座布団地、寝間着、枕、シーツ、寝具などで国内シェア7割を超え、再び隆盛を極めていた。900軒もの織物屋が軒を連ね、村田さんの幼少期には朝も早くからガチャンガチャンと機を織る音があちこちから聞こえていたそうだ。「ガチャンと織れば1万円」とのことから、ガチャマン時代と言われたという。そして、昭和48年のオイルショックで再び停滞する。

村田染工の社長である村田博氏(村田さんの兄)は、昭和59年にたった3反残っていた青梅嶋に偶然出会い、再現を考えるようになった。

青梅嶋の染めには主に藍が使われていた。もともと染物屋であるから、化学薬品を使えばすぐに藍染はできるけれど、どうせ青梅嶋を再現するのであれば昔ながらの醗酵の方法でチャレンジをしたい。兄弟は、10年ほどかけ青梅嶋の再現を果たすが、その後も天然藍染の魅力にひかれ、村田染工の一部門として壺草苑を開苑。弟の徳行さんがその工房長として昔ながらの藍染にこだわっていくこととなる。

天然藍灰汁醗酵建てにこだわり、
本物を作り続ける

そもそも藍はどうやって作るのだろうか。
タデアイという植物の葉を乾燥させ、醗酵させ、藍師と呼ばれる職人の手によって1年かけて作られるのが「すくも」という藍染の原料だ。この「すくも」は、藍の菌が冬眠している状態だという。徳島から送られてくる「すくも」が届いてから後が「壺草苑」の出番である。

一見、ただの黒土のように見える「すくも」。ここに含まれるのが、布を美しく染め上げる藍の菌である。「すくも」に灰汁を加え、甕(かめ)で醗酵させて藍染をしていくが、灰汁を加えただけの時点では水はまだ透明のままだ。菌はアルカリの中でしか生きないので、常に甕の中をアルカリにしておく必要がある。灰汁のほか、石灰などアルカリ性の原料をバランスよく与えていき、温度を適温に保ち、朝晩棒でかき混ぜ、酸素を含ませ、環境を整えて醗酵させると1週間ほどで泡が盛り上がり、「藍の華が咲く」と呼ばれる状態になる。藍が覚醒したのだ。

「オギャーって藍が生まれて、同時に色が液中に溶け出るわけ。だから醗酵しない限りは、うんともすんとも染まらないんです」

醗酵させなければ染まらない。しかし、醗酵と腐敗は紙一重だ。そこに管理のむずかしさがある。若いころには購入したての「すくも」を腐敗させてしまい、すべて捨てたこともあるという。そうなれば原料代はもちろん無駄になり、甕の内側全部洗ってアルコール消毒して石灰で消毒し、一からやり直さなければならない。

藍が目覚めた液で布を染め上げる。1度、2度、3度、と何度も漬けることで、藍色は次第に深まる色となっていく。

現在は、苛性ソーダ、ハイドロといった化学薬品を使えば、ものの30分もあればすぐに染まる。腐敗させないための管理も必要なければ手間もコストもかからない。だから今は、「本藍染」「正藍染」と銘打っていても化学薬品を使った染物が主流だ。そこで、壺草苑をはじめ、古来のやり方を踏襲している職人たちは「天然藍灰汁醗酵建て」という名称で、化学薬品を使った製法と明確に差別化をしている。

化学薬品を使わない天然の藍染は、藍染職人の手が全く荒れないばかりか防虫、抗菌作用があり、古くから野良着や剣道着、蚊帳などにも使われてきた。そういった実質的な効果のほか、藍そのものの持つ色の美しさ、光沢、肌さわりなど、天然藍染の魅力は尽きない。「こってり感があって、透明感があって、化学染料で染めたものとは全然ちがいますよ」と村田さん。

十分に役目を果たした藍液は、すべて畑に戻す。灰も同様だ。木を切って、燃やしてできた灰で灰汁をとり、使い終わったものは陶芸家がもらいに来て、その残りを土に返す。見事なほどの持続可能な還元型サイクルなのだ。全く無駄なく自然に返る。
「うちの藍の液は、家庭排水よりよほどきれいですよ」と胸を張る。

大変だからこそ、藍染は面白いのだと村田さんはいう。そこに、村田さんがわざわざ手間のかかる天然藍灰汁醗酵建てにこだわる理由がありそうだ。

赤子を育てるように、年寄りをいたわるように、
藍を慈しむ

村田さんは、藍染のやり方について、日本中の藍染の専門家を訪ね歩き、教えを乞うた。しかし誰も正確なところは教えてくれなかった。専門家であっても、すでに化学染料を使っている人が多かったから、村田さんが望むやり方を正確に教えられる人はほとんどいなかったのだ。
村田さんは、文献を調べ、聞きに行った人から、ヒントになるようなことを砂粒の中の一粒を拾い上げるように寄せ集めて、ほぼ独学で藍染の技術を確立していった。

「地域の特性によっても違いますし、いろいろな誤認もあるんだけれど、これはたぶん本当だなということをひとつずつ取り入れていきました。それは、たとえば『甕も周りを毎日拭け』とか、『水を毎回捨てろ』とか、『朝来たら、窓を開けろ』とか。そんなことからでした」
単なる礼儀に過ぎないような言葉の端々に、雑菌の対処法や温度管理のコツなどの真髄が隠されているのだった。

壺草苑の小さな工房には、甕が8つ。1年365日休むことなく毎朝7時には工房を開け、窓を開き、風を通し、前日までに染めあがった商品を干す作業から壺草苑の一日ははじまる。15時には染めを切り上げ、甕の周りを拭き、8つの甕をのぞき込み、棒でかき混ぜて状態を調整し、壺草苑の一日は終わる。

8つの甕の中の藍の様子は、一つひとつ違う。できたばかりの藍染液で元気なものもあれば何度も染めて疲れている液もある。一つひとつの甕の様子に合わせて、栄養源である小麦の皮、全粒粉、石灰などを入れてみたり、少し休ませたり、工夫を欠かさない。たくさん甕があるのは、使い分けをするためなのだ。

「新しい藍でも、調子が悪いことはある。藍に適したpHにしていてもうまく染まらないこともある。どうしたらいいのか、何を入れたらいいのか。夜中に来たり、寝られなくて朝早く来たり。若いころはたくさん失敗もしました。あまり教えてもらっていないから、全部独学なんですよ」

人間の高齢者も、健康であれば食が細くても元気に活動できる。藍も全く同じだそうだ。
「古い藍は、栄養を与えるのは1週間から10日に1度にしたり、1日に染める量を減らしたりします。健康であれば、薄くてきれいな藍色を出すなど、いい仕事をしてくれます。面白いことに栄養源をたっぷり入れると、翌日はあまり染まらないんですよ。2~3日置いておくと、また染まるようになる」。おなか一杯でお休みさせてということなのだろうか。
「元気がないときには酒を入れるの。酒は即効性があるので、染めすぎて疲れたときには入れてやるんです」。藍の様子を、村田さんは実に生き生きと語る。

藍は言葉をもたない。心で会話をしながら状態を見極め、病気になることを未然に防ぐ。藍の健康を損なえば、腐敗につながる。腐敗はほかの甕にも影響してしまう。そうならないように日々、万全を尽くす。

その結果、その時の藍の一番いい状態を引き出して美しく染めあがったときに感じる幸せは、何よりも代えがたいと村田さんは感じている。

うちでなければできないものを作っていく

今の村田さんの仕事は、工房全体の総監督。藍を管理し、だんどりをつけ、7人いる若者たちを指導していく。

村田さんに「壺草苑」の将来はどのように見えているのだろうか。

「すくも」が減産していることは今後の課題だ。全国でわずか5軒の国選定無形文化財に指定されている藍師が作る「すくも」は、後継者不足から10年で生産量は7割に減っている。そのうえ2020年はコロナ禍ものしかかってきた。自分はともかく、若い人たちの将来がどうなるか気にかかると顔を曇らせる。

天然藍灰汁醗酵建てで作り続けることは、数々の困難がある。しかしそれを逆手にとって、壺草苑でなければできないものを作れば武器になると村田さんは考えている。

「これからの目標は秋冬の商品をどう作っていくかです。実は藍は保温性が高い。ウールはアルカリに弱いなどの問題がありますが、うちは自然のアルカリで染めているからダメージが少ない。他ではできないよい商品ができるはずです。あとはもっと海外にアピールしていきたいですね」

安易な道は今までも歩いていない。
「もし30年間、偽りの藍染をしてきたなら、ビルが建っていたかもしれない。でもそれじゃ、ずいぶん面白くない人生だったかもしれないですね」と笑う。

世の中に逆行しようとする強い精神力と、努力した者だけが得られる「楽しさ」を胸に、一歩一歩進んできた。これからもそれは変わらない。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)

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