DJ歴38年。安心安全で老若男女が楽しめる
ディスコを提唱する

1970年代に日本に入ってきたディスコ文化は、形を変えながら日本に定着してきた。今回は初期のディスコブームから一貫してDJの第一線で活躍し、現在「高齢者ディスコ」という新しい分野にも挑戦しているDJ OSSHYさんに、話を伺った。

DJ OSSHY
1965年生まれ。東京出身。ディスコ DJのスペシャリスト。安心・安全・健康的な「親子ファミリーディスコ」「三世代ディスコ」「高齢者ディスコ」などのDJイベントを企画している。

認知症の人も、下半身不随の人も笑顔で楽しむ

気持ちのいい秋晴れの日。あるデイケアセンターのホールには、30人ほどのお年寄りが集まっていた。そこに黄色のジャケットスーツとともに登場したのが「DJ OSSHY」だ。晴れやかな笑顔で会場の雰囲気を盛り上げる。

この施設では3回目となる高齢者ディスコ。ディスコといっても、ここでは車いすの方あり、半身が思うように動かせない方あり。いわばディスコとは対極にいる人ばかり。

OSSHYさんは、音楽にあわせながらゆったりと「大人ディスコを通じて、10歳若返りましょう」と優しく語り掛け、イベントは始まった。大声でもなく、早口でもなく、口跡がよく、お年寄りでもとても聞きとりやすい声なのは、名アナウンサーだった父親譲りだろうか。

オープニングの70年代のディスコの名曲から日本の懐メロまで、途中の休憩をはさんで約1時間。
「両手をあげて、ゆらゆらとゆっくりふりましょう」との声掛けに、この集いに初めて参加する人はおっかなびっくり手をあげる。「両手で拝むポーズですよ」「綱引きのポーズです」といった振り付けの指示も明確でわかりやすい。

最初は動きもぎごちなかった人も、イベント終了のころにはしっかりと音に合わせ腕をゆらし、足を踏み、声を出し、リズムに乗っていた。身体がほぐれてきたのか、目はぱっちりと見開き、顔色がよくなっていることがわかる。いつのまにか、観客も増えていた。
結構な運動量なのだろう、普段汗をかかない高齢者たちも、このイベントのときには汗をかくという。
「みなさん、10歳若返りましたよ。今日はぐっすりと眠れそうですね」というOSSHYさんに、皆、驚くほどの笑顔で応える。

OSSHYさんは、DJを続けること38年のプロだが、2017年からこうした高齢者ディスコを始めて各地を回っている。なぜ高齢者ディスコに行きついたのだろうか。

途切れずに曲が続くDJブースの技術に感動

OSSHYさんは、現在53歳。父は、昭和の昔、ベルトクイズQ&Qなどでお茶の間でお馴染みだった押阪忍氏だ。しかし、数年前までそのことをOSSHYさんは公表していない。

テレビの画面の中では柔和な父だったが、子どものしつけには厳しかった。押阪氏にしてみれば
「親の七光りで勘違いをしてはいけない。決して甘やかしてはいけない」。そんな気持ちがあったのだろう。しかし、OSSHYさんにとっては、自由にやりたいと思うことはかなわず、毎日が習い事の窮屈な少年時代だった。

厳格な親ではあったが、中学のころ、自由にさせてくれたことがあった。音楽を聴くことである。次第に「お気に入りの曲をセレクトしてテープを作る」ことに夢中になる。クラスの友達に配るととても好評で、それがうれしくて一人で部屋に籠って黙々と作業をしていたそうだ。カセットデッキのPAUSE(一時停止)、REC(録音)、PLAY(再生)の3つのボタンを駆使し、どうしたらなるべく音と音の間をあけずに入れられるか、自然に次の曲につなげられるか苦心しながら、オリジナルのセレクションテープを作っていた。

だから、高校に進学して先輩に誘われ、初めてディスコに行ったときには衝撃だった。
「ノンストップでオンビートで、曲が途切れない。店内のミュージック環境に驚いたんです」
同級生や先輩が、女子のほうに気をとられていくのに反して、OSSHYさんは、DJブースに足が向く。
ディスクジョッキーという人が、ターンテーブル、プレイヤーがあってミキサーを通じて次の曲につないでいく仕掛けを初めて知ったOSSHYさんは、それ以降、ナンパ目的の同級生とは一線を画し、ディスコには一人で行くようになった。

前菜からデザートまで。
フルコースを提供する音楽料理人

ディスコ=不良の行くところ、DJ=不良 という固定観念をどうしても拭い去ることができなかった父は、息子のディスコ通いには断固反対。ましてや職業にするなど、到底許しがたいことだった。常に優しい母も、ディスコといえば、たばこの煙が充満している不健康な場所というイメージであったから、良い顔をしなかった。
しかしOSSHYさんは、DJ一筋に歩み続け、今年で38年になる。

そもそも、DJ=ディスクジョッキーとはなんだろうか。
「様々な定義がありますが、基本的には、自分がいいと思った楽曲を大勢のオーディエンスに自信を持って紹介するのが、DJ。楽曲という素材を使って、コース料理を提供するいわば音楽料理人なんです。1時間のコースを、ストーリーを考えて反応をみながら組み立てていく。前菜からデザートまで、音楽のフルコースをお楽しみくださいという気持ちで、毎回臨んでいます」

いくら事前に組み立てて、完璧なストーリーを作っていても、お客様の反応をみながら状況判断し、選曲も替える。アドリブも必要だ。リクエストにも応えたい。自分の中だけで完結していればそれは単なる「オタクDJ」になってしまう。
非常に緻密でアーティスティックで、クオリティの高い技術が必要な職人芸であるのに、両親を含め、世間一般の評価はまだまだ低いとOSSHYさんは、もどかしさを感じている。

時代によって変わってきた「よいDJとは」

さらに、この道38年という年月は、口で言うほどたやすくはない。第一線にとどまり続けたOSSHYさんの足跡はそのまま日本のDJ史といってもよい。

「DJって時代によって求められるものは変わってきたんです」とOSSHYさんは語る。

「ディスコ全盛時代によいDJというのは、いかに盛り上げてお客様を踊らせられるかということでした。踊っている人が多ければ多いほど評価されるという時代でした」

いろいろな音楽が体感できる80年代のディスコから、90年代に移るとロックだけ聞きたい、ソウルだけ聞きたいといった嗜好を重視するクラブカルチャーへと変わっていく。

一斉にステップを踏んだり、ミラーボール、チークタイム、バースデーコールなどはすべて排除され、ディスコDJという言葉すらなくなった。80年代に一世を風靡したDJでこの時期に引退した人は多いという。

OSSHYさんは、元々ブラックミュージックに心酔していたこともあり、90年代はR&B、ヒップホップ系のクラブDJとして転身、時代の波に乗った。

2000年代になると、80年代にディスコで遊んでいた人たちが、結婚をし、子育てをし、少しずつ戻ってきた。しかし、昔のようなディスコはすでになく、クラブにはなじめない。そんな人たちのために、週に1日だけ80年代ディスコを開催する店が出てくるようになった
「ダンスクラシックス」と呼ばれる動きがそれだ。

そして、週に1日だけではなく、そこに特化したダンスクラシックス専門店として、青山の「キサナドゥ」が開店。OSSHYさんはそこのDJとしてオファーを受けた。

健全で明るいディスコを目指し、親子で楽しむ

こうして、80年代ディスコと90年代クラブが共存する2000年代に突入する。
2002年のこと、休日の昼間に親子でディスコを楽しむイベントをレコード会社が企画し、そのメインDJをOSSHYさんが請け負った。その時の参加者の楽しそうな様子をみて、一度きりで終わらせず自分が本腰を入れてやってみようと考え、現在まで続けている。

OSSHYさんが「親子ファミリーディスコ」を長く続けられたのには、もちろん参加者がとても喜んでくれたこともあるが、原点は、DJを認めてくれない父にあった。

「ディスコに不健全なイメージがつきまとうというなら、健全なディスコをアピールしたらどうだろう。音楽に合わせて体を動かすのは、老若男女に関わらず楽しめるものであるはず。夜が不健全なら、昼間やればいい。大人だけで遊ぶのが悪いなら、子どもも一緒に踊ればいい。DJが革ジャンで不良っぽいならジャケットを着てやればいい」とOSSHYさんは考えたのである。

「親子ファミリーディスコ」は、同業者には総スカンだったが、父は「それは子どもも楽しめるのか。いいイベントだね」と、初めて息子の仕事を認めてくれたのだった。

OSSHYさんが、父にどうしたらわかってもらえるのかと考えれば考えるほど、結果的には、独創的な、誰もやったことのない新しいスタイルのDJ像を確立することとなっていった。
それは、群雄割拠のDJ界で、ユニークな存在として生き残る術にもなったのである。

こうして2002年に、わずか30人で始まった「親子ファミリーディスコ」は、現在企画すれば400人が集まる人気イベントとなり、さらに、高齢者向けディスコへと続いていく。

ずっと現場に立っていたいから

3世代でディスコに行っても何の不思議もない。それほど今のシニア世代は元気だ。
一方で、足腰が立たなくなっても、認知症でも、冒頭のシーンのように楽しめる高齢者ディスコを、今後はもっと広めたい。

「みなさん、かけっこしたら転んでしまうかもしれないけれど、気持ちは若い。ビートルズを聞いていた人に施設に入ったとたん『赤とんぼ』を歌えと言っても無理があるんです。好きな音楽を通じてお客さんと感動を共有するという仕事は、生涯続けていきたいですね」

どうしたら認めてもらえるか。どうしたらずっと現役でいられるか。そのためにはどうしたらいいか必死に考えながら、愚直に道を歩んできた。
「30年かかってやっと評価をいただけるようになりました。自分の意志を継続できたのは、自分を信じる力。それだけじゃないですかね」

自分を信じて、今日もOSSHYさんはオーディエンスの前に立つ。

(取材・文 宗像陽子 写真 金田邦男)

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