多文化共生を伝えていく。
お互いの違いを認め、
尊重し合う世界のために

現在、留学生に日本語を教えつつ、地域でも外国人と日本人の交流サークルを運営している福村さん。大学を卒業後に普通のOLとして働き始めた福村さんが今に至るまでの物語は、社会に出てからの女性であれば誰もが共感できる、紆余曲折のある話なのだった。

アシスタントではつまらない。専門家になりたい

福村さんは滋賀県大津市の生まれ。現在50歳である。大学を卒業したのは、バブルのしっぽがなんとか残っているころ。外資系のIT企業に就職した。選んだ理由は、日本で一番休みが多いと聞いていたし、お給料も多かったから。仕事はしたいが、休みもほしい。バブルを謳歌した女子大生らしく、未来への希望に満ちあふれていた。

配属されたのは営業部。しかし、「自らの実力で成果を出し、評価をされる」という仕事ではなく、男性のサポートをする営業事務だった。

「コンピューターがバンバン売れる時期でしたし、本当に忙しかったですね。サービス残業もあるし、休日にこっそり会社に行って仕事をしたり。でも、仕事はつまらなくて、とにかくフラストレーションがたまりました」

福村さんは、サポート役ではなく「職人」になりたいと思った。寿司職人でも陶芸作家でもいい。専門職にあこがれた。何か、手に職をつけたい。そんなある時、「日本語教育能力検定試験」の存在を知り、その試験に合格するための講座に半年通ったのである。

毎週土曜日に講座に通い、資格を取得。それで踏ん切りがつき、3年勤めた会社を辞めて、アメリカ・ノースキャロライナへ飛ぶ。「カレッジインターンシッププログラム」に応募したのだ。無給だが、衣食は与えられ、自分の好きな科目を聴講できるという条件で日本語を教えることができた。そこで1年間過ごしたことが、日本語教師となるきっかけとなった。

福村真紀子
滋賀県出身。早稲田大学日本語教育研究センター助手。東京外国語大学留学生日本語教育センター非常勤講師。「多文化ひろば あいあい」代表。

知らない土地での子育てに、迷い道

1年たって帰国後、結婚。専業主婦となり、ほどなく子どもも生まれる。はたから見れば順調な人生のように見えるが、福村さんにとっては「絵に描いたような幸せ」とはいかなかった。

結婚を機に、滋賀から大阪へ転居。当初は里帰り出産をする予定だったが、早産により救急車で運ばれて知らない病院での緊急出産。子どもは保育器に入れられ、初めての出産・子育ては困難な船出となった。

子どもが2歳になるまで大阪にいたが、知らない土地で右も左もわからない中での初めての子育てというのは、想像以上につらいものだ。ママ友をつくるのも難しい。しかし、この時の経験が、後年の福村さんの活動に強く結びつくこととなった。

福村さんはバイタリティーにあふれ、積極的なタイプだったから、赤ん坊と向き合い、家に閉じこもる生活は堪えた。社会との接点が途切れたという無力感は大きかった。かといって、目の前の小さな命の炎は、手を差し伸べなければいとも簡単に消えてしまう。そして、何よりも愛しい。

20年前の日本中の夫がおしなべてそうであるように、福村さんの夫もそれほど家事に協力的でもなく、福村さんは次第に追い詰められていく。家にいるのがたまらなくて、夜中に車のハンドルを握りドライブをしたり、親に3日間子どもを預けてスキーに行ったりして、心のバランスをどうにか保っていたという。
「まだ授乳をしている時期に、夜行バスでスキーに行ったことがありました。途中のサービスエリアでお乳をしぼって(笑)」
人になんと思われようと、当時の福村さんにとっては自分の心のバランスを保つために必要なことだったのだろう。

社会との接点をもちたくて、子どもを夫に預け、小説教室に通ったことも。必死に書いて、新人賞などに応募するが、全く相手にされず、さらに落ち込む。そのころの福村さんは、精神的に迷走を続けていた。

再び日本語教師を目指す

夫の転勤に伴い、今度は東京へ。子どもを保育園に預けてアルバイトを始めたものの、それも補助的な仕事だったため、再び日本語教師を目指すことを決める。

2004年、持っていた資格とアメリカでの経験を買われ、日本語学校の非常勤講師となり、日本語教師として再スタートを切る。35歳だった。

ある日のこと。授業中に居眠りばかりしている生徒がいた。起こすと、その生徒に「日本語学校で日本語は学べません」とはっきり言われてしまった。「俺は、焼肉屋でバイトをしたから、日本語が上達したんだ。日本語学校の授業は役に立たない」という。福村さんはショックを受けつつ、学校ではないところで学ぶとはどういうことかと考えてしまった。

留学生たちは、住んでいる地域でアルバイトなどをして多くの時間を過ごし、そこで生きた日本語を学んでいく。また、日本在住の外国人は留学生ばかりではない。今話題の技能実習生もいれば、日本人と結婚して日本に来た女性もいる。お金がなくて日本語学校に通えず、言葉がわからない人も多い。そういった外国人向けに、日常会話や生活情報に関して、地域住民が中心となってボランタリーに支援する活動があることもわかった。「地域日本語教育」といわれるジャンルに、福村さんは興味を持つようになっていった。

地域日本語教育としての「多文化ひろば あいあい」誕生

「外国人が地域で暮らしていくための生きた日本語教育を目指す」。福村さんの人生の照準が次第に合ってきた。特に「地域日本語教育」に福村さんが惹かれた理由は、自身の子育て期の経験があったからだ。

「私は日本人で、日本で子育てをしていました。日本語も達者です。それでも知らない土地で子育てをするというのは想像以上につらいものでした。いわんや、外国から来たお母さんたちは、どれだけ苦労するでしょう。心細い思いをするでしょう。友達だって、簡単にはつくれませんよね。家に引きこもれば、日本語が上達するわけもなく、ますます孤立が深まるはずです」

福村さんは、地元の日野市国際交流協会にボランティアで通いつつ、大学院進学を目指す。

そして、2009年、早稲田大学大学院日本語教育研究科に入学し、「地域日本語教育」を専門で学ぶようになった。さまざまな地域の日本語教室を回った中で、大阪のとよなか国際交流協会が行っていた「おやこでにほんご」という教室は特に印象に残った。そこでは、教科書を使って日本語を教えるのではない。外国人の親子と一緒に買い物に行ったり、料理をつくったりしながら、生活の中で使える日本語を参加している日本人が自然に示していた。

地域で孤立に陥っている外国人のお母さんを救いたい。福村さんの中で、自分も地域で親子が対象のサークルを立ち上げようという気持ちが次第に強まっていく。ゼミの先生が「たとえ対象者が一人でもいいんだから、自分でやってみなさい」と背中を押してくれたこともあり、2010年、地元の日野市で外国人と日本人との交流を目的とする「にほんご あいあい」を立ち上げた。(その後、名称を変更し、「多文化ひろば あいあい」となる)

2011年の東日本大震災の際には交通機関の混乱もあり、一時期活動を休止したが、その時に日本のニュースを見ても理解できない外国人から直接電話があった。
「あの……。今、外に出ても大丈夫なんでしょうか?」
早速、状況を説明し、こんな時にこそサークルが必要なのだと痛感し、サークルを再開した。

現在、「多文化ひろば あいあい」は月に1回程度の定例会と、春と秋に市民向けのイベントを行う。定例会は、10人程度のこぢんまりとした活動。春秋のイベントには、日野市の子ども家庭支援センターおよび武蔵野美術大学とコラボし、毎回100人以上の参加者がある。

2018年、武蔵野美術大学とのコラボイベントの様子。特殊なストローでドームをつくり、宇宙に見立てた。その後、グループで短冊に願い事を付けてぶら下げた。グループでおしゃべりをしながら作業をし、ひとつのモノを仕上げていく。

次々と出てくる課題を、楽しみながら解決していく

今年で10年目の活動となる「あいあい」だが、その都度課題が出てきて、その課題を解決すべく少しずつ歩んできた。ただ活動を継続するだけではなく、そこから常に課題を見つけ、解決する糸口を探っていくのは、楽な道ではない。福村さんは常に楽ではない道を歩んで、山の頂を目指しているようだ。

当初、福村さんは、日本語教育の専門家の立場から、日本語学習支援を大きなテーマとしていた。「今までで一番楽しかったことはなんですか?」「今までで一番もらってうれしかったプレゼントは誰からのものですか?」といったテーマに沿っておしゃべりをするという活動である。外国人に日本語を上達してもらうことが目的だった。ところが、日本語がしゃべれないお母さんたちは、それについていけずに孤立してしまう。

そこで、メンバーが持ち回りで先生となり、祖国の料理や、伝統的な踊りを教える方式に変えてみた。自分の祖国の料理をつくったりダンスを教えたりするのは日本語が話せなくてもできるので、その点はよかった。日本人の参加者にとっても、異国文化に触れられて、満足度が高い。しかし、サークル内では楽しめても、サークル外での生活サポートにはならなかった。

なぜなら、サークルの外では、日本語ができないため、友達がつくれない。ハローワークに行っても、「もっと日本語が上手になってから来てください」と言われてしまう。病院に行っても、うまくコミュニケーションができない。これでは、本来福村さんがやりたかった「外国人が地域で暮らしていくための生きた日本語教育」にはならない。そこで、次は方針を変えて、その人の抱える課題をオープンにして、相談に乗れるような活動にしたいと考えた。しかし、ただ「悩みはありませんか?来てください」と呼びかけるだけでは、参加者の増加につながらない。そのため、2019年には料理を看板にして、人が集まれば、抱えている問題が明らかになるような仕掛けにしたいと考えている。

「子育てにシリアスな問題を抱えている人がいるかもしれない。仕事を見つけられなくて困っている人もいるかもしれない。それはわざわざ話さなくてもいいことだけれど、話せる場所が彼女たちにはないのです。そうした悩みをオープンにできるようにするのが、『あいあい』の活動の目標です」

「料理」をきっかけにすることで自然なコミュニケーションが生まれ、外国人と日本人がお互いを知る第一歩になることも。

多文化共生とは、違う文化や価値観を尊重すること

今『あいあい』には、チュニジア、カンボジア、台湾、ベトナム、アルジェリアなど、さまざまな国籍の人がやってきて、福村さんは「とても面白い」と感じている。
「文化はもちろん違いますし、自分のステレオタイプが崩されていくのが面白いんです」
たとえば、「イスラム教の女性は、男性より一歩引いて、スカーフを巻いていて、地味」といったイメージを持たれやすいが、実はとてもアクティブだし、スカーフやスカーフを留めるアクセサリーを毎回変えておしゃれを楽しんでいたりする。アルジェリアの女性は、誰でもベリーダンスを踊れるけれど、夫以外の男性には見せるものではないというのも面白い。「あいあい」でベリーダンスを披露してもらった際には、その時だけは男子禁制にしたそうだ。

英語圏の人ばかりが来るわけではないから、使う言語もバラバラだ。コミュニケーションはさまざまな形で行われる。身振り手振りだったり、絵を描いたり、漢字圏の人であれば漢字を書いたり、メンバーの中にその国の言葉ができる人がいれば間に入ってもらったり。手を変え、品を変え、お互いにコミュニケーションを図っていく。

それぞれが違う文化や価値観を持っており、それをお互いに尊重し合うのがグローバル社会というものだ。けれども、「時々、こちらの思いと少しずれている思いをもって参加される方がいます」と、福村さん。「あいあい」に「子どもに英語を学ばせたい」と思ってくる人が少なくないというのだ。「英語を習わせることがグローバルだと思っているなら、それは大いなる勘違いです。日本では英語至上主義みたいなところがあって、そこはちょっと不満ですね」とチクリ。世界の中で、英語圏は実はそれほど多いわけではない。
「多文化共生という言葉の意味をほかの人たちと一緒に考え続けていきたいですね」

活動を続けていく限り、課題は常に生まれてくる。課題そのものを福村さんは楽しんでいるようにも見える。

国籍・性別・年齢を越えて人々が集まり、日本で暮らす外国人の話に耳を傾ける。

第2、第3の「あいあい」をつくりたい

日野市での「多文化ひろば あいあい」を続けるとともに、今後は地方でも第2、第3の「あいあい」をつくりたいと語る福村さん。
「実は、私の趣味がスキーと釣りなんですよ。だから、北海道か、長野か、それとも生まれ故郷の滋賀に移住したいと思っていて。辺ぴなところで、泥にまみれて第2、第3の『あいあい』をやってみたいですね。ふふふ」

外で遊ぶことが大好きな福村さんらしく、将来の計画も遊びとセットで考えているらしい。

「働き方改革」が叫ばれる一方で、まだまだ女性が働こうとするとさまざまな壁にぶつかり、前に進みにくいのが現状だ。それでも、一歩動くこと、歩き始めること、自分自身のこだわりを貫くことで、人生は回り始める。そのことを福村さんは身をもって教えてくれている。

「多文化ひろば あいあい」は少人数で運営されているため、イベントの小道具を福村さん自身が用意することも多い。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)

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