日本人の魂は、劇団新派にあり。
明治~昭和の日本人の生き様を舞台で伝える

終身雇用という言葉が死語のようになって久しい。何十年も同じ組織で働く人は、昔ほど多くはないだろう。まして、劇団員となればなおのこと。しかし、今回ご紹介する小川絵莉さんは、高校生の時に劇団新派に入り、すでに40年の時を超えて今も新派女優として舞台に立つ。新派とかかわり続けた半生について、小川さん行きつけの居酒屋でお話を伺った。

シラノ・ド・ベルジュラックにあこがれて

「物心ついた時から、舞台女優になるって決めていたの」と、小川絵莉さん。体躯はがっしりとして目力があり、意志の強さを感じさせる。どんな女の子だったのだろうか?と興味が湧く。舞台を観たことがきっかけで、美しい女優にあこがれるというのは、とても子どもらしい夢ではある。しかし、小川さんのあこがれは、普通の女の子のそれとはちょっと違った。

事件記者だった小川さんの父親は若いころに演劇に夢中だったから、家には演劇関係の蔵書がたくさんあった。共働きの両親の一人っ子だった小川さんは、「ひとりで家の本を読む」という毎日をずっと送っていたという。

そして、小学生の彼女が膨大な本の中でも一番気に入ったのが、岩波文庫の「シラノ・ド・ベルジュラック」だった。

「シラノ・ド・ベルジュラック」といえば、教養はあるが器量の悪い主人公がロクサーヌという美しい女性に捧げる恋の物語だ。当然ロクサーヌにあこがれたのだろうと思いきや、小川さんの心をとらえたのは醜い男のシラノ。

シラノはロクサーヌに恋をするが、ロクサーヌはクリスチャンという美男子と恋に落ちていた。シラノはクリスチャンの代わりに恋文を書き、送る。十数年後、シラノが死ぬ直前になって、ロクサーヌは恋文の送り主がクリスチャンではなくシラノだったことに気づく。

小学生の小川さんは、何度も何度も本を読み返し、ラストシーンを読んでは胸を打たれる。
知性も教養もあるのに、醜いばかりに女性に見向きもされないシラノ。死ぬ間際、すでに文を読めないほど辺りが暗くなったにもかかわらず、すらすらと詩を朗読するシラノ。はっとロクサーヌは気がつく。恋文を誰が書いたのかということを。シラノは、ロクサーヌの腕の中で静かに息絶える……。

「そのラストシーンをやりたくってねえ! 私はシラノの方よ」と、小川さん。地元の小学校に演劇クラブはなかったので、人形劇クラブに入り、既成の戯曲を書き直したり、謝恩会の時の芝居の脚本を書いたり。シラノになる夢はかなわなかったが、舞台女優を目指す気持ちは揺らがない。夢の実現へ向かって着々と歩み続ける。

小学校六年生の時に「日本で演劇を勉強するなら俳優座だ。そこへ入るためには演劇科のある桐朋学園に入学したい」と考え、中学の募集要項を購入し、親に「ここに入学したい」と頼み込み、中学受験をして入学。早速演劇部に入り、充実した6年間を過ごす。

小川絵莉
東京都出身。昭和51年、初代水谷八重子に入門。劇団新派に入団。高校在学中に初舞台を踏む。主な舞台に「太夫さん」「芝桜」「狐狸狐狸ばなし」(新派)「海神別荘」「日本橋」など。2018年は、映画「妻よ薔薇のように」、「黒蜥蜴全美版」(新派)、喜劇「有頂天一座」などに出演。

その時代にタイムトリップしたかのような
リアリティあふれる舞台に衝撃を受ける

「演劇科のある桐朋学園の付属中学高校から大学に進み、俳優座へ入り、舞台女優へ」。それが小学生だった小川さんが描いた人生の青写真だった。しかし、中学、高校と、その大学の演劇科の様子を横から眺めているうちに、気持ちは変化していった。

小学校の時から英語を習っていたのは、本場の演劇を自分のものにしたいからだった。本場で学びたいという気持ちもある。イギリスへ行こうか、アメリカへ行こうか。それとも、ICUを受験し、2年通って英語力にさらに磨きをかけてから、留学しようか。そんなふうに、気持ちはフワフワと定まらないまま、時間は過ぎていった。

高校卒業後の道筋が決まらないまま、新橋演舞場に新派の芝居を初めて観に行ったのは、高校三年の秋のことだった。

新派は、明治時代に「歌舞伎」(旧派)に対してできた演劇の一流派だ。小川さんは、芝居は好きでも、まだ新派の舞台を観たことはなかった。「おばさんの観る芝居」と、心のどこかでバカにしていたところが、初めて観た新派で、「目からウロコが5億枚くらい落ちちゃった」という。

それまでは「ああ! 夕日がきれいだね!」という舞台ならではのオーバーアクション気味の芝居しか知らなかったのが、「あら、夕日がきれいね」という自然な演技に初めて触れて、ゾクゾクとするほど心を動かされたのだ。

舞台では歩いている人、座っている人、しゃべっている人、全員が小道具も衣裳も含めて絵画のワンシーンのように見え、その一方でその家に住んでいるかのような確かな生活感も感じられた。

観客はあたかもその時代にタイムトリップしているかのよう。そんな新派の舞台に、小川さんはすっかり魅せられてしまった。

「まあ。火事場の金時さんみたい!」
初代水谷八重子との出会い

実は、この日の観劇には裏事情があった。初代水谷八重子が「ほかの座にいたことがなく、演劇学校に行っていない子をひとり弟子にしたい」と言っていたのを聞きつけた小川さんの父親の知り合いが、小川さんをその芝居に招待してくれていたのだ。それを小川さんは知らなかった。

小川さんのその日の服装は、当時はやりのパンタロン。ライオンのようなヘアースタイルで、楽屋でのしきたりはもちろん、一般的なお行儀もちゃんと知らない、元気な野良犬のようなもの。観劇後、知人に促されて楽屋にあいさつに行くと、八重子さんは小川さんを一目見て「まあ。火事場の金時さんみたい!」と評し、「明日からいらっしゃい」と言ってくれたそう。もとより小川さんは件の舞台を観て、すでに心を新派に奪われていたから、「はい!」と即答。小川さんは、こうして水谷八重子の弟子となることが決まった。

それから高校を卒業するまでは見習いとして、放課後に新橋演舞場に足を運び、八重子さんの身の回りの手伝いをすることとなった。昭和51年秋のことだった。

怪獣エリゴン誕生す

「新しい世界は面白くて面白くてたまらなかった」と、小川さん。外国人が初めて日本を観ているようなもので、劇団新派の舞台裏、小道具、大道具、劇団ならではのしきたり、何を見ても聞いても面白い。

面白がったのは、彼女を受け入れた劇団側もおそらく同じだったのだろう。当時、劇団新派に入るのは舞踊の家元の子や料亭のお嬢さんなどが多く、小さい時から踊りや邦楽の勉強をしているのが当たり前。その中で、「バレエとピアノとカンツオーネは習っていたけれど、踊りもお行儀も知らない破天荒な女の子」は、新派始まって以来の新人だった

楽屋に入る時も前割れのジーンズやロンドンブーツで皆を驚かせ、すぐについたあだ名が「怪獣エリゴン」。プログラムの紹介にも「恐怖の新人」と書かれたというから、よほど異質な存在だったに違いない。それでも、八重子さんをはじめ、皆がその異質な存在を面白がってくれ、かわいがってくれた。小川さん生来の太陽のような明るさと素直さも、かわいがられる所以であったろう。

「どこにいるかわからなかったから、合格よ」

初めて舞台に立ったのは、高校三年生の時の「佃の渡し」である。北條秀司の描くやさぐれ女の話で、主人公が自殺したと思って皆が探しに出てくる場面で、舞台の袖から現れてダーッと走り抜ける、長い袖なしのどてらを着た娘の役だった。

舞台後、八重子さんから、「えりや(小川さんは八重子さんから親しみをこめて「えりや」と呼ばれていた)は、どこにいるかわからなかったからOK」とほめられた。

いい目立ち方をするにはまだ早い。くすんだ色彩が美しい、絵画のような舞台の中で、ひとりだけクレヨンで描かれたような存在であってはいけない。風景に溶け込むことが、まずは必要なのだ。

芝居に関して、細かく教えられるわけではなかった。

「師匠の教えは極めてシンプルで、『風景に溶け込みなさい』。もうひとつは、『その人間になってしまいなさい』ということでしたね」と、小川さんは懐かしむ。舞台の上で、たとえ転んでも、鼻をかんでもいい。その役の人になり切っているのならば。失敗した時でも素の自分に戻ってはいけないというのだ。

このほか、八重子さんは常に小川さんをそばにおき、舞台に対する思い、舞台の魂を伝えてくれた。人を叱る時も、わざわざ小川さんを呼び、後ろに座らせて、そのやり取りを聞かせた。なぜ叱られるのか、何がいけないのかを教えるために。

しかし、濃密な二人の時間はそれほど長くは続かなかった。八重子さんは、3年後に乳がんでこの世を去ってしまったからである。

八重子さんは、亡くなる前に、小川さんたち弟子の行く末をある人に託した。それは、歌舞伎役者の坂東玉三郎だった。「しんちゃん、後はお願いね」。まだ大人になり切れていない弟子たちを玉三郎さんに託して、初代水谷八重子は昭和54年に息を引き取った。

多くの人にかわいがられ、演技を教えられ、人生を学ぶ

「後になって思えば……大学に行かなくてよかったと思います」と、小川さんはしみじみと語る。もし大学に進学してから新派に入団していたら、八重子さんには当然会えなかった。八重子さんを通じて多くの人にかわいがられたことを思うと、大学に行かないことで得られた4年間が何にも代えがたい宝物に感じられるのだった。

小川さんは、地唄舞の先生である今井栄子さんに、舞台での歩き方、足袋のはき方などを基礎から教わった。そこまで初歩的なことを教えてくれる人は、ほかに誰もいなかったのである。坂東玉三郎さんからは、白塗りの仕方、所作、立ち居振る舞いといった初歩的なことに始まり、洋装でのエレガントさの出し方、芝居観、人生観に至るまで、多くのことを学んだ。新派の舞台にもよく立っていた玉三郎さんは、自分が出る舞台では小川さんに必ず役をつけた上に、楽屋でも髪や襟を直すなど、細かいところまで気にかけてくれた。また、周りの女方たちは、いささか女らしさに欠ける(?)小川さんを見るに見かねてか、彼女を追いかけ回して、女性らしい座り方、歩き方などを教えてくれたという。

八重子、杉村春子とともに三大女優といわれていた山田五十鈴、さらに萬屋錦之助、市川歌右衛門、大川橋蔵、石井ふく子など、多くのビッグネームに小川さんはかわいがられ、学び、女優としての力をつけていった。

女の子から大人の女優へ。
個性派女優として存在感を放つ

舞台では、楚々とした美しい主役ばかりでなく、ちょっとおチャッピーな元気な女の子の役も必ず求められる。それが小川さんのはまり役となり、外部公演も含めて、役はどんどん回ってきた。

小川さんにとって難しかったのは、女の子役から大人の役に次第に移行する時期だった。劇団新派には二代目水谷八重子と波乃久里子という二枚看板がいて、小川さんは八重子とは19歳違い、久里子とは12歳違いのため、年回りが中途半端で役どころが難しくなってしまったのだ。

「早くお母さん役をできるようにがんばろうと思っていましたが、何年かは難しかったですね」

しかし、そんな時に石井ふく子プロデューサーが座組に入れてくれるなど、いつも誰かが声をかけてくれた。そして、ちょっと奇妙な役が回ってくることも。

「蛇遣いの太夫とか、脱いでも脱いでも裸にならないストリッパーとか(笑)。でも、私はそういう変な役が大好きだったんです」

ロクサーヌではなく、シラノにあこがれるくらいだったから、ちょっと変わった役は大好物なのだ。新派文芸部の脚本・演出家である齋藤雅文が、小川さんを生かすような役どころをつくり、演技を引き出してくれるようになる。齋藤は、玉三郎さんのもとで長年修業をし、小川さんとは気心の知れた、いわば兄弟弟子の関係でもあった。

いつの間にか、ある時はよい目立ち方をする個性的な女優として、ある時は風景になじむベテラン女優として、小川さんは確固たる地位を築いていた。

2018年5月、劇団新派の「黒蜥蜴」の舞台で、筆者は小川さんを観た。小川さんは、岩瀬夫人を演じていた。「早苗~!」。娘の名前を呼びながら舞台に出てきた岩瀬夫人は、それだけで舞台の雰囲気を変えるほどの力があった。岩瀬夫人は、本来はもっとおとなしい普通のお母さんでセリフも多くないが、小川さんに合わせて個性的な役へと変貌していたのだ。娘かわいさのあまり、少しエキセントリックな母親ではあるが、ただの過干渉な母親ではなく、娘思いでどこか憎めない。小川さんは、そんな難しい役どころを嫌味なく演じていた。

新派の一員であり続け、新派の未来を見届けたい

劇団新派が始まって130年を迎えた。今、新派は、盛り上がっている。歌舞伎界から喜多村緑郎、河合雪之丞らが新派に入り、新風が吹き込んできたのだ。2018年春の「黒蜥蜴」に続き、秋の「犬神家の一族」も大きな反響を呼んだ。彼らは歌舞伎俳優だったころから新派の舞台に立っており、新派と交流を深めてきた。しかし、ゲストとして出るのと、歌舞伎俳優を辞めて劇団新派に飛び込むことは、意味合いがまったく違う。

「彼らは、歌舞伎の世界から来たというよりは、新派人になるべくしてなったと、私は思っているの」。2019年1月に三越劇場で上演される「日本橋」で共演できることがとても楽しみだという。

子どものころはシェイクスピアなどの欧米の演劇にあこがれていた小川さんだが、今は「生涯新派女優を貫きたい」と思っている。

「日本人の魂は、やはり泉鏡花の『日本橋』や北條秀司の『佃の渡し』にあると思うからですよ。明治、大正、昭和を生きてきた日本人、その姿をお客様に伝えたい。シェイクスピアに、日本人の魂はないでしょう」

ひとたび舞台の幕が上がれば、全身全霊をかけて「日本人の魂」を演じる。それを演じられるのは新派だという強い自負がある。新橋演舞場を新派の劇団員全員で開けることを目標に、新派の一員であり続ける。それが、新派入団42年目の小川さんの思いだ。

(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)
取材協力/下北沢てるや

劇団新派公式サイト

https://www.shochiku.co.jp/shinpa/

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