花屋に生まれ、写真家となり、
アフリカの花園に出会う奇跡
大自然の素晴らしさを撮影する写真家として、世界でその功績を認められている澤野さん。「神々の花園®」と名付けた美しい景色に出会ったことで人生は大きく変わった。アフリカの大地が持つ熱量をあまねく伝えるのが役目と語る、澤野さんの想いを伺った。
花を愛する環境に育って
澤野さんの実家は花屋さん。母親の背に負われている頃から花に囲まれ、花とともに生活し、本棚は牧野富太郎をはじめ植物や生物の図鑑で埋め尽くされているという環境に育った。
「花は身近にあったから大好きです。とくに、色に関する興味は尽きなかったですね。勉強は得意ではなかったけど、算数や理科は好きでした」
たくさんの色のグラデーションを見るのが好き、数字が好き。物理や自然界、神秘的なことが大好きな一風変わった少年は、大人が求めるような勉強には興味がなかったが、いつも明るく素直だったので、先生にも友達にも好かれていた。
若干日焼けした顔に、キラキラした瞳。来春還暦を迎える澤野さんは“自然が見せる一瞬の命の輝き”を求めて、長い間世界中を旅してきた。写真家として70ヶ国余りを訪れ、多くの作品を発表している。大自然に触れて得た感動を一人でも多くの人に伝えたい、という気持ちが言葉の端々ににじみ出ているが、特にアフリカとの縁は深い。
「アフリカの大地は、すべてのエネルギーの源。僕はファインダーを通してそのエネルギーを伝える“パイプ”だと思っているんです」
マイナス40度以下。
北極で大自然の素晴らしさに圧倒される
家業を継ぐつもりで高校は園芸系の学校へ進学。そこで偶然、先生に誘われて入部したのが写真部だった。写真部には時折、写真展の招待状が届くので、著名な写真家の個展などに行く機会が増え、次第に写真への興味が湧いていく。
そして、日本大学芸術学部写真学科へ進学。大学では山岳部に入ったが、その伝手で映画『南極物語』のロケに同行するという話がやってきた。「マイナス40度以下の環境で雑用ができる人」という過酷な応募条件。極地サポートという名のいわゆるロケスタッフだ。しかも何ヶ月も休学を余儀なくされ、就職活動もできなくなるのを覚悟の上での仕事となる。澤野さんはすぐに手を挙げた。「おもしろそう」と思ったからだ。
このロケに参加したことが、澤野さんの人生にとってひとつの大きな転機となった。
『南極物語』は、実はそのほとんどが北極での撮影であった。だから澤野さんが行ったのもカナダ北極圏である。その大自然の存在感に澤野さんは圧倒された。眼前に見えている山が一体何百キロ先にあるのかがわからない。見たこともないような夕焼け。切り立つ氷山。はるかな景色。そして3月中旬から日に日に伸びる日照時間。4月下旬には、もう太陽が沈まなくなる。
北極圏に行ってからすでに30年以上経つが、澤野さんの目に焼き付いた光景は今なお、色褪せることはない。
3ヶ月以上に及ぶロケを無事終えた後、その足でヨーロッパ、マチュピチュなど南米、ニューヨークを周り帰国。4年に復学した後もオーストラリアやインドネシアの皆既日食(1983年)などの撮影を続け、卒業制作では金丸重嶺賞を受賞した(ただし本人は賞にはとんと興味はないのだとか)。
衝撃を受けた、一枚のアフリカの写真
大学卒業後、写真週刊誌のカメラマンからフリーとなって活動をしていた澤野さんは、青年海外協力隊の一員として、アフリカのマラウイ共和国の政府観光局に写真部門を設立するプロジェクトに参加する。1986年12月のことだ。はじめてアフリカの地に立った澤野さんは、その後2年余り、アフリカに滞在する。
あるとき、マラウイ共和国と友好関係にあった南アフリカ共和国の観光パンフレットを目にする機会があった。何気なくページを開いた澤野さんは、ある一枚の写真にくぎ付けとなる。それは、一面の花畑の写真だった。人間がきれいに整地したものではなく、あらゆる色が咲き誇る、天然の、自然の花畑。広さがどれほどあるかもわからない。花の種類もどれだけあるのかわからない。その、色とりどりの天国のような情景写真から、澤野さんはしばし目を離すことができなかった。1987年のことだった。
「『何これ?これがアフリカ? すごい……!』というのが第一印象でした」と澤野さん。もともと実家は花屋さんだったから、花が好きで知識も豊富だからこそ、写真が伝える花園の素晴らしさに気づけたのかもしれない。
なんだ!? この咲き誇る花は……。
ただただ、景色の中に花が咲き乱れている。どこなんだろう? とパンフレットをひっくり返して調べるも、地名は出ていない。わずかに「ナマクアランドの春」というキャプションがあるが、いくら調べても、南アフリカの地図を開いても「ナマクアランド」という地名はどこにも出てこない。撮ったのがいつなのかもわからない。
「南半球に位置する南アフリカで春ってことは、日本で言えば9月くらいなのかな、と。そんなことを類推するのが精一杯で、あとは何にもわかりませんでしたね」
これは絶対、自分の目で見てみたい。しかし結局、マラウイに滞在中にその花園の場所はわからず、任期を終えて1989年に帰国してから、さっそく赤坂見附の南アフリカ観光局に行き、問い合わせてみた。しかし、得られたのは「確かにパンフレットがあるならどこかにあるんでしょうね。でもどこなのかはわかりませんね」という回答であった。
次第に明らかになった“花園”の正体
1990年2月、ネルソン・マンデラ氏が釈放され、アパルトヘイトが終わりを告げる。翌1991年、10月半ばに澤野さんは満を持して、南アフリカのヨハネスブルグに入った。南アフリカの観光地を撮影する仕事だった。もちろん、ナマクアランドにつながる情報も何とか掴みたいという気持ちでいたことは言うまでもなかったが、現地の人とのふとした会話からその突破口は開かれた。
「知ってるわ。ここから1,400キロあるけれど、その“ナマクアランド”の“スプリングボック”という街にあるカフェの、この人を頼ってお行きなさい」
初めて写真を見たときからすでに4年が経っていたが、ようやく、ナマクアランドにつながる人に出会うことができたのだ。
ナマクアランドの正体は次第に見えてきた。ナマクアランドというのは“ヒトのいる場所”という程度の俗称だった。だから地図にも載っていなかったのだ。ナマクアランドは、なんと日本の1/3ほどの面積を持つ土地を指すのだという。日本で言うなら「東北地方」とか「関東地方」といったような名称だったのだ。
そしてついに、ヨハネスブルグから1,400キロの道のりを越え、澤野さんは夢にまで見たナマクアランドに到達する。残念ながら、その年の花の季節は終わりを告げており、目にしたのは緑と茶色が一面を埋め尽くす世界だった。
澤野さんは、教えられたスプリングボックという街のカフェで絵葉書を買い、地図を眺め、来たる日のために情報収集に専念した。さらに宿泊したホテルで、世界的に有名な自然保護活動家のニール・マクレガー氏を紹介され、一路300キロを南下、すぐに会いに行った。
マクレガー氏は、世界中からナマクアランドに集まる研究者たちを迎え入れ、調査に協力をしている人だった。マクレガー氏とは初対面とは思えないほど、夜遅くまで話が尽きることがなかった。
「次回はぜひ花の時期に家族で!」と言われて、5年後の1996年。澤野さんはようやく、夢にまで見た、花咲き誇るナマクアランドを訪れることができた。妻と5歳の長男、3歳の次男とともに、である。一家は4ヶ月間、ナマクアランドに滞在し、子どもは現地の幼稚園に入園。50キロ離れている幼稚園に子どもの送迎をしてから撮影をする、という毎日が始まった。小さな子どもを連れて行くことに周囲の反対もあったが、1年の三分の一を現地で過ごす生活は、長男が中学に入学するまで続いた。
1996年の花園は、偶然にも50年に一度と言われるほど、稀にみる大当たりの年だった。1996年から1998年にかけて撮り続けた写真は、『神々の花園®』という一冊の写真集となり、世に出ることとなった。
ナマクアランドの奇跡
ナマクアランドというのは、前述したように日本の1/3ほどの面積を持つ広大な土地だ。初夏から秋まで続いた乾ききった大地に、冬の冷たい雨が降り始め、春の訪れが近いことを知らせる。雨は年によっては猛烈に降るという。雨ばかりでなく、雹や雪が降ることも珍しくない。雨があがると一斉に、あちらこちらで花が咲き始める。干からびた大地で耐えていた植物たちは、この時とばかりに蓄えていたエネルギーを放出し、花を咲かせ、種を散らす。
一説によれば、ナマクアランド全体では春だけでも4,000種類以上もの花が咲くと言われているが、その全貌は明らかにはなっていないという。花の中には自然交配で新しく生まれた珍しい原種もあれば、地球上でここにしか生息していない絶滅危惧種も新たに発見される。この地域の植物種をすべて網羅した図鑑は未だにないという。
種子として繁殖する植物以外に、球根など地下茎植物の比率が高いのも特徴で、それぞれの植物に相応しい条件の整った年にしか咲かない。だから毎年同じ場所を訪れても、花園の色のグラデーションが毎回違う。同じ光景は二度とみられないのだ。
この花園に関して、こんなおとぎ話がある。
「昔むかし、神様が花の種が入った袋を腰に下げて空を飛んでいました。ふと気が付くと袋の穴から大切にしていた種はこぼれこぼれて荒野は花園に変わりました」
(「神々の花園/澤野新一朗」より)
そのおとぎ話の通り、ある場所はオレンジ色のナマクアランドデージーで彩られ、ある場所では黄色のグリーラムが満ち溢れる。かと思えば、数えきれない色の組み合わせで埋め尽くされた花園も突如出現する。ほんの1週間前までは、乾ききった茶色の大地に緑のブッシュが広がっていただけなのに、それはまったく神の仕業としか言いようのない奇跡の花園なのだ。
現れては消える奇跡の花園を追いかけ、
ツアーを企画
1997年、日本で初めて澤野さんがナマクアランドを紹介すると、講演会には花が好き、 大自然が好きという人たちが集まった。ぜひ現地を訪れたいという希望に応えて1998年からツアーが企画され、以来毎年この花園を案内してきた。今年で21年目になるが、ナマクアランドのツアーの企画は簡単なものではない。
場所が広大であること。今年はどこでどういう花が咲き広がるのかわからないこと。花が咲く時間も一日の中で10時から4時くらいと限られていること。雨が降れば花は閉じてしまうこと……。とにかく、不確定要素が多いからだ。
「神々の花園®」の話を聞いた当初、筆者は「誰も知らない秘密の場所にひっそりとある、年中美しい花園」というイメージを抱いていた。ところがそうではなく、広大な場所のそこかしこに、春の一時期だけ神出鬼没に現れて消えるのが「神々の花園®」なのだった。
毎年ナマクアランドに長期滞在している澤野さんは、独自のコネクションで一般の観光客が入れない個人の所有地も含め、くまなく下見をする。そしてその年一番の絶景の花園を探し出す。それは、現地に家族とともに住み、コミュニティに参加し、長年交流をし続けてきた人でなければ成し得ないことでもあろう。
「見えない気配」まで撮る写真家へ
ツアーに参加した人はアフリカのエネルギーに触れると子供に還ったようにワクワクし、元気を取り戻していく。澤野さんは、そんな自然本来のエネルギーを日本に持ちかえり再現したいと願い続け、次第に、アフリカのエネルギーを写真だけでは伝えきれないと感じるようになってきた。
もっと伝えたい、アフリカのピュアなエネルギーを。日本では聞いたこともないような野鳥、カエル、虫の音。木々のざわめき、そして「気配」をすべて。
見えるものだけではなく、見えない気配まで切り取る。そのために、人間の耳では聴き取れない2万ヘルツ以上の音までをハイレゾで録音した。皮膚は可聴域を超えた音をも感知すると言われているからだ。現地の自然音や録画した花々の光を照射したスペースに作品を展示する「全身で体感する写真展」は好評を博している。
「僕らは大自然のほんの一部にすぎない。一瞬の命の輝き、美しさ、大自然と調和したエネルギーを伝えるために、表現方法を変え、ツールを変えながら、これからも試行錯誤してアートを創っていきますよ」
ゆるぎない熱意で、澤野さんはアートを究めていく。
(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)