登場人物の感情を、音に乗せて観客に伝える
女流義太夫三味線の世界で生きる
女流義太夫三味線奏者として、30余年。細棹三味線や中棹三味線と違い、太棹を駆使する義太夫三味線は、野太く低く、肝にズシンと響く。女流義太夫の世界に飛び込み、一心に歩んできた寛也さんに話を伺った。
男性顔負け。女流義太夫の世界
女流義太夫という芸能を知っている人は、それほど多くはないかもしれない。
竹本義太夫が道頓堀に櫓を立て、人形浄瑠璃竹本座をおこしたのが貞享元年(1684)年である。その後、文楽、歌舞伎は男の世界として存続している。その一方で、女性も義太夫を始めた。女義太夫、娘義太夫(明治時代)、女流義太夫(戦後)と呼称を変えつつ今に至る。江戸時代後期には、禁止された期間があったが、その期間でも絶えることはなく続いていたようだ。明治10(1877)年に女性芸人も法的に認められるようになると、がぜん勢いを盛り返した。寄席から寄席へ回っていく娘義太夫の乗った人力車をファンが追いかけ、人気番付まであったというから今も昔もアイドルに夢中になるファン気質は変わらないらしい。「追っかけ」という言葉の語源は、娘義太夫を追いかけるファンのことだと言われている。
今は、残念ながら明治時代の勢いはないが、それでも定期演奏会や、乙女文楽とのコラボなど、様々な形で女流義太夫はファンを楽しませている。
さて、女性の太夫の隣に座り、息の合った演奏で語りを盛り上げる三味線奏者は、やはり女性である。通常は、太夫一人に対して、三味線一人。「太夫と三味線はピッチャーとキャッチャーのようなもの。スターであるピッチャーが輝くよう、投げやすいように、邪魔しないように」弾く。
そう語る鶴澤寛也さんは、その三味線奏者として、30余年この道を歩んできた。
義太夫を知ると、歌舞伎がもっと楽しくなる!?
義太夫との出会いは、歌舞伎がきっかけだった。大学生になって、小劇場から歌舞伎座まで様々な演劇を貪欲に楽しむようになった寛也さんにとって、一番しっくり来たのが歌舞伎だったという。歌舞伎をきっかけに、文楽を観るようになり、その後女流義太夫が現在まで続いているということを知った。
それは、歌舞伎座でふと見かけた義太夫教室のチラシがきっかけだった。
「そのチラシには『義太夫を稽古すると歌舞伎がもっとわかる』みたいなことが書いてあったんですよ」
当時、寛也さんは粋な清元の三味線にあこがれ、「習ってみたい」という気持ちはあったが、どちらに行って良いのかわからず、そのままになっていたそうだ。
三味線は棹の太さで「太棹」「中棹」「細棹」の3種類に分けられる。義太夫三味線は「太棹」で、低く重厚感のある音が特徴だ。三味線自体も重い。「たとえば、清元がチェロなら、義太夫はコントラバスですね」と寛也さん。同じ三味線でも、それほど個性は異なるのだ。
やりたかったのは義太夫ではなかったものの、「歌舞伎をもっと楽しめるなら」と義太夫教室に通い始めると、講師はほとんど女性の師匠方で、そこで初めて『女流義太夫』に触れることになる。寛也さんは、腹の底に響き渡るような「デーン、デーン」という響きの太棹の魅力に引き込まれた。お稽古の傍ら、毎月定例の女流義太夫の会に通い、名人の芸に聞きほれる。とりわけ、大阪からよく来ていた鶴澤寛八師匠の三味線にすっかり心を奪われた。次第に直接稽古をつけてほしいと思うようになり、紆余曲折の末、入門を許される。
「最初のうちは、何度も断られてしまいました。プロになろうと考えていたわけではないんですが、お稽古をつけてほしいという一心で、最後は『大学を卒業したら、大阪へ行きます』と言ったら、師匠もあきらめたのか、入門を許してくれました」と笑う。
義太夫の世界は家元制度ではないので、基本的には世襲がない。名取制度もない。だから入門と同時に「鶴澤寛也」という名前を与えられ、寛也さんは「プロ」となった。昭和59(1984)年のことである。
手探りで進んだ入門当時
名前をもらったからといって、何かメリットがあるわけでもなければ、いきなり実力がつくわけでもない。ただ「この子をプロとして育てていくのでよろしく」「一生懸命頑張ります」といういわば師匠と弟子の公式決意表明のようなもの。
名前に見合うだけの力がつくのは、30年40年単位で時間のかかることだから、1年後の初舞台のときとて、師匠や観客のお眼鏡にかなうものでもない。それでも観客は新人プロの成長を楽しみにして、気長に見守っていく。
寛八師匠に入門を許されたものの、修業の道は厳しかった。厳しいと言っても、叩かれるわけでもない。怒鳴られるわけでもない。撥が飛んでくるわけでもない。「うちの師匠は、厳しいというよりも、教えてくれないからむずかしかったんです」と寛也さん。「ずっと『うーん。ちゃうな』『なんやおかしいな』みたいな感じでどこがどう悪いのかは、ほとんど言ってくれないんですよ」
寛八師匠が、そのまた師匠に教わっていた時代は、「ちがう、ばか、あほ、やめてまえ」と、撥がとんでくるような修業が当たり前だったから、師匠自体、言語化して教えることに慣れていない。
教わる側はどうか。それまで、習い事のピアノひとつとってみても、細かく教わることに慣れている世代である。「なんや、違う」と言われても、理解ができず、どうすればよいのかわからない。「自分で何度も弾いたり、いろいろな方の演奏を聞いたりして、自分なりに考えるしかなかった」という修業は、むずかしく、手探りで時間をかけて努力を重ねるしかなかった。
鶴澤寛八、豊澤雛代、二人の師匠の亡きあとは文楽の鶴澤清介師匠の預かり弟子となって精進を続けている寛也さん。多くの人との出会いが今の寛也さんを形作っているが、中でも平成31(2019)年に亡くなった小説家の橋本治さんとの出会いは、大いに寛也さんを勇気づけ、背中を押してくれることとなった。
10年ほど前のこと。橋本さんは、寛也さんの三味線を「近代的」と評した。当初、「自分の三味線が近代的であるならば、古典芸能である義太夫三味線を続けることに意味があるのだろうか」ととまどう寛也さんだったが、自分の資質を受け入れ、認めて、新たな境地へ一歩踏み出すきっかけとなったことだった。
三味線弾きはアスリート
たおやかなたたずまいの寛也さんだが、その指はごつごつしていて太い。三味線を弾くには、爪を立てて弦にあてるため、左手の人差し指と中指の爪は真ん中に深く亀裂が入っている。三味線は重く、座っている姿勢が多いため、膝、腰も悪くなりがちだ。いつも体のどこかが痛いので、鍼灸通いは欠かせない。アスリートのように体のメンテナンスには常に気を使わなければいけないのだ。
そう。プロの三味線弾きは、アスリートに似ているのかもしれない。
「ある時期、手にばかり力が入り、汗をかいてやりきったような気になってしまうことがありました。一生懸命やって、変な疾走感、達成感のようなものが生まれて満足してしまう。技術は伴っていないのに」
アスリートもまた、同じ落とし穴に落ちて抜け出せなくなる人は多いだろう。
寛也さんも、師匠に「手に力が入っている」と指摘され、「ちょっと、抜けてきたな」と言われるまで、1年ほどかかったという。
観客に、感情を音で伝える
人との出会いに恵まれ、努力を重ね、長く三味線を弾いてきた。同じ曲を何度も弾いてきた。
その間、自身の子どもは大きくなり家を出て、親は亡くなり、いつの間にか一人暮らしになった。
年を重ねるにつれ、同じ曲に対する感じ方も変わってきた。
「義太夫って、人の感情が前面に出てくるでしょう。弾いていて、その語りのどこにグッとくるかが若いころとは変わってきました」
たとえば、世話物であれば、親が出てきて小言を言ったりするシーンがある。若いころには「早くここは終わって一番盛り上がるところが来ないかな」と思うこともあったとか。
けれども年を重ねてくると、親がくどくど言っているのもよくわかる。くどくど言っても子どもは絶対に聞いていないというのもよくわかる。
人を求め、笑い、泣き、怒り、別れ、死んでいく。江戸時代も今も変わらぬ世の習いなのだ。人生とは、こういうことの繰り返しだとしみじみ感じる。
はて、自分が奏でる音は、そのような心情がちゃんと音に現れているだろうか。尊敬すべき師匠たちのように。
寛也さんは言う。
「『自分はこういう気持ちで弾いています』という宣言はプロの場合、意味がありません。お客様がどう感じて下さるかが一番大切なことなので、もっと技術を磨いて、感情を音でお伝えできるような三味線弾きになりたいなと思っています」
高みを目指して
義太夫節は悲劇が多い。しかし「たとえどんな悲劇であっても、お客様に『楽しかった』と言っていただけるような三味線弾きになりたいです」。寛也さんはそう語る。
女流義太夫は、江戸時代から弾圧や時代の変化にもかかわらず途切れることなく続いてきた。その灯を消すことなく、さらなる高みを目指したい。寛也さんの変わらぬ想いである。
(取材・文 宗像陽子 写真 金田邦男)