60歳過ぎたら、楽しく稼ごう!
知恵と経験と好奇心と笑顔で、
現役で働き続ける
東京都三鷹市に住みながら、月の半分は茨城県笠間市に向かい、農作業に汗をかきつつ笠間の人たちと交流する。三鷹と笠間をつなげる活動をしている堀池さん。なぜ「二地域居住」なのか。その活動的な生き方と今後の展開について伺った。
“まさかの笠間”との出会い
「Uターン」「Iターン」という言葉は、聞いたことがある。出身地に戻るのが「Uターン」、出身地から別の地方に移り住むのが「Iターン」だ。
しかし、今回ご紹介する堀池さんは「Oターン」を提唱する。
「都会で稼ぎながら田舎へ行く。東京で仕事はやめないけれど、田舎の活性化を応援してそれをビジネスにする。副業にする。あるいは、会社の仕事をそこに持っていく」。
これが、堀池流Oターンだ。
ちなみに「Oターン」には、一度Uターン就職した若者が、田舎暮らしの刺激のなさや保守性などに嫌気がさして、再び大都市に戻って就職する風潮という意味もある(kotobank.jpより)。しかし、堀池さんの提唱するものはこちらとは全く異なる。
堀池さんは長く東京都三鷹市に住み、三鷹で「NPO法人 シニアSOHO普及サロン・三鷹」を立ち上げた。シニアの社会参加を推進してきたコミュニティビジネス界では、堀池さんを知らない人はいない。しかも、「ただのオジサン」ではなく、笑顔と好奇心で若い人の話をも熱心に聞き、いつの間にかあらゆる世代の人を仲間に引き込み、地域をハッピーにしてしまう「ただならぬオジサン」なのである。

その堀池さんは現在、東京都三鷹市と茨城県笠間市との「二地域居住」の生活をしている。
二地域居住のきっかけは2012年。三鷹の活動で知り合ったYさんが、自身の出身地である笠間のツアーを企画したことに始まる。
笠間は、東京から約120キロ。江戸時代からの焼き物の街だ。笠間焼と言われ、益子焼の源流ともなった歴史もある。しかし、堀池さんにとって笠間市の印象といえば、35年ほど前の「うら寂しい沈滞した町」でしかなかった。
だから「笠間市に一度行きましょう」と誘われても、正直あまり気乗りはしなかったという。ところが実際に行ってみると、随分印象は違っていた。
やきものどおり、陶の小径、ギャラリーロードと続く3キロあまりの道の両側には、焼き物を売る店や作品を展示するギャラリーやおしゃれなカフェが軒を連ねる。さらに国道から北に折れ、車を走らせて高台に上れば、そこは“工芸の丘”。陶芸美術館を敷地内に有した広々とした芸術の森公園が眼下に広がる。親子連れや恋人同士がお弁当を手にのんびりと楽しむ、憩いの丘だ。
工芸の丘の半ばほどにある、茨城県立笠間陶芸大学校の卒業生がそのまま笠間に移住することも多く、現在は約300名の陶芸家や窯元が、市内でさまざまな個性的な作品を生み出している。


昔の寂しい笠間しか知らなかった堀池さんは、今の笠間市のユニークな発展ぶりに大いに驚いた。聞けば、笠間市を盛り立てたいと活動をした地元の人や行政担当者、移住してきた焼き物作家たちの努力で、地域全体が変わってきたことがわかったのだ。
笠間の特色は焼き物だけではない。もう一つは、豊かな穀倉地帯であることだ。水がきれいなことから酒造りには絶好の地域となり、市内の古めかしい4ヶ所の酒蔵が観光事業にも一役買っている。


魅力の多い笠間ではあるが、課題もまたある。観光客は年間360万人もいる一方、5年間で4,000人の若者が首都圏へ去った。これは全人口の5%にあたる。
笠間で何かユニークなイノベーションはできないのだろうか。持ち前の好奇心と堀池さんのアイデア魂に火がついた。
三鷹から“笠間ツアー”企画を応援!
堀池さんに笠間を紹介した、笠間出身・三鷹在住のYさんは、その後も三鷹の人たちに呼びかけ、笠間ツアーを何度も企画して、笠間の魅力を三鷹の人たちに伝える活動を始めた。魅力ある笠間に「まさかの笠間だ!」と、駄洒落のようなインスピレーションを感じた堀池さんは、Yさんを応援する形で、好奇心の赴くままに首を突っ込むうちに、笠間ではさらにどんどん面白い人とつながっていった。
そうこうするうちに、「クラインガルテン」という宿泊施設付き市民農園があることを知り、年間単位で借りることを即決。2016年から、月の半分は三鷹、残り半分は笠間という生活を続けている。

笠間の発展に驚いたからといっても、普通であればそこで終わってしまうだろう。堀池さんはいいと思ったらどんどん周りの人に声をかけていく。しかし、無理強いはしない。そこに堀池さんの堀池さんたる所以がある。
堀池さんは、もともとは電機メーカーの技術者。定年前に三鷹で地域活動を始めた。「シニアだって、その経験と知恵で現役と同じようにバリバリ働ける」と、アクティブシニアを提唱し、シニアに向けてITについて定期的に教えはじめたのが、地域活動に足を踏み入れたきっかけだ。
「NPO法人 シニアSOHO普及サロン・三鷹」を創設し、パソコン初心者にパソコンを教える仕組みを作り、200名近い講師を養成。地域活動に大いに役立つこととなる。その後、シニアが孫世代と竹とんぼ作りで交流する講師育成の会「どこ竹@竹とんぼ教室」や「多摩CBネットワーク」、「地域と私・始めの一歩塾」を設立し、地域のシニアが活躍する場を作ってきた。いずれも「シニアなのだからいたわって欲しい」という精神は微塵もなく、「シニアが稼ぐ地域活動」を提唱する。
ボランティアをしない、その理由
堀池さんは、ボランティアはしない。なぜ、ビジネスとして稼ぐことにこだわるのだろうか?
現在76歳の堀池さんは、戦争で父を失い、静岡の山村に家族で疎開していた。その時代というのは「病気にならないように気をつける」とか「高齢者だからやさしく」とか、そんな生易しいことは一切なかった。「力のないものは死ぬんだよ。負けたら終わりだよ」と、毎日母親に言われて育ったという。
「何か能力があれば、生きられる」
その時から、人の真似のできない何かがあれば、人の役に立つことができれば、生きていられると考えるようになった。
そして、「働く対価としてお金をもらう」ということは、責任を伴い、生半可な気持ちではできないことだと考える。さらに、緊張感をもって働くことはボケ予防にもなる、というのが堀池さんの持論だ。とはいえ、辛い働き方をシニアに押し付けるわけではない。
「シニアは、60歳までとは違う働き方ができるはず」と堀池さんは言う。30歳までは、働き、学ぶ。30歳~60歳までは家族のために必死に働く。嫌なことを我慢して働くこともあるだろう。しかし、60歳以降は、楽しみながら働くのがいい。得意なことだけに集中して働く。毎日でなくてもいい。週に2日とか1日に3時間だけとか、自身の体調と相談しつつ働き方を決めていけばいい。
「自分の得意なことを活かして、責任感をもって地域で働く。それはとても楽しいことですよ。お金も入り、地域も活性化して、ボケずに自分も元気になる。一石三鳥です」
60歳になった頃は、アクティブシニアを提唱して現役同様バリバリ働くことを目指していた堀池さんだが、70歳をすぎ、身体も少しずつ自由がきかなくなってきた。昨年は大きな病気もした。
「体は動かなくても、知恵はますます付く。瞬発力はないから、間違えないようによく気をつけて、できることをやるんです。だから、アクティブシニアではなく、今はスマートシニアを目指しています。平均寿命を少し過ぎたら、終活について考えようと思っていますよ」と、にこやかに語る。
成果がいっぱい!三鷹⇔笠間交流の仕掛け
笠間に話を戻そう。
2016年度、堀池さんの「笠間活動報告」を見せてもらった。
いくつかの成果が、そこには見られた。
1) 畑の野菜を33種類も栽培した。いくつかの失敗も体験しつつ、料理も体験した。
2) 地域の交流イベントには16件参加し、交流を深めた。陶芸体験・蛍狩り・竹かご作りなど、地元ならではのイベントで思う存分楽しむことができた。とりわけ、酒蔵と農家がタイアップした「酒米の会」の交流は楽しいものだった。
3) 自身の活動により、多摩地域から40人が笠間を訪問し、50人もの笠間の人との交流が実現した。企業チームの参加もあった。ロッジでは地元の人との交流会が催された。
4) 多摩の人による笠間の人への「得意技講座」を4回実施した。(竹とんぼ教室・手作りパん教室・ブログ発信講座・パン作り講習)
この他、今年になってからは、ドローンを持っているが東京では飛ばせない人が、クラインガルテンからドローンを飛ばして笠間の風景を撮影。「自分たちの住む笠間って、こんな素晴らしい景色なんだ」と笠間の人たちが喜ぶ、といったこともあったという。
いずれも、自分や自分の家族だけが楽しむのとは違い、その土地ならではのことを地元の人とともに楽しむ、あるいは笠間の人が気づかないような知恵や技、情報発信の仕方を東京暮らしの視点から教えるというような、生きた交流が生まれ始めている。
70歳を過ぎても、日々新たな発見がある
堀池さんは、今日も畑で虫とにらめっこしたり、野菜の世話に余念がない。もともと畑仕事が好きなのかと思って聞いてみると、そうではなかったそうだ。
「60歳をすぎたころに一度畑をやってみたけれど、挫折してやめたんだ」とのこと。70歳過ぎで再び、笠間での野菜づくりに挑戦し、現在は2年目だ。「1年目にはわからなかったことがいろいろ発見できたんだ」と、少年のように瞳を輝かせて話してくれた。
堀池さんと話をしていると、妙に元気がわいてくる。人はいつの間にか自分の能力の限界を狭め、決めつけてしまう。しかし、70歳近くなっても新しい楽しみを発見できると知ると、まだまだ自分も知らない、自分の能力が最大限発揮できるような何かがあるのかもしれない……と、ワクワクしてくる。
また、自分の経験や知恵が、全く別のところで役に立つかもしれないと思うと、体の底からエネルギーがわいてくるような感じがするものだ。これから自分の身にどんな不自由なことがあろうとも、何らかの形で社会貢献ができるなら、これほどうれしいことはないとも思う。
クラインガルテンの畑は堀池さんにとって、今のところはまだ趣味の範疇を出ず、笠間市の課題を解決するようなビジネスには至っていない。けれども、
「若い世代との交流を深め」
「自身の健康に責任を持ち、軽度な不調は自分で手当し(セルフメディケーション)」
「生涯現役でクラインガルテンで稼ぐ」
という堀池さんの野望は、堀池さんと堀池さんの周りにいる人たちによって、少しずつ静かに、前に進んでいるようだ。
(取材・文:宗像陽子 写真:金田邦男)
