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陸軍と近代産業

江戸期に広大な範囲に広がっていた大名屋敷の敷地は、明治期になり軍用地となった所も多い。「江戸城」の防衛の要でもあった尾張藩徳川家の上屋敷の跡地には「陸軍士官学校」が置かれ、「太平洋戦争」中には「参謀本部(大本営陸軍部)」などが、現在は「防衛省」などが置かれており、江戸期からの防衛拠点としての歴史を引き継いでいる。明治中期の牛込には、「秀英舎」(現「大日本印刷」)の印刷工場も置かれた。のちに周辺では印刷業・出版業が発展し、現在では新宿区の地場産業となっている。


「陸軍士官学校」から「防衛省」へ

江戸期に四谷・牛込にあった広大な大名屋敷の敷地は、「明治維新」後、陸軍用地となった所も多い。尾張藩徳川家の上屋敷跡には1874(明治7)年に「陸軍士官学校」(以下「陸士」)が開校した。写真は1911(明治44)年頃の「陸士」。
MAP __【画像は1911(明治44)年頃】

「陸士」は将校を養成する施設で、市ヶ谷の高台にあることから、通称「市ヶ谷台」とも呼ばれた。写真は大正前期の「四谷見附橋」付近から見た「市ヶ谷台」。【画像は大正前期】

写真は1937(昭和12)年、「陸士」の本部として完成した建物(「陸士」移転後は「陸軍予科士官学校」の本部となった)。同年、「陸士」の本科は神奈川県の相武台へ移転、予科は「陸軍予科士官学校」として独立したのち、1941(昭和16)年に埼玉県の朝霞へ移転した。「市ヶ谷台」には、1941(昭和16)年の「太平洋戦争」開戦と同時期に「陸軍省」「参謀本部(大本営陸軍部)」などが移転してきている。
MAP __【画像は1944(昭和19)年】

戦後、「市ヶ谷台」は米軍に接収されたのち、1959(昭和34)年に返還された。その後、自衛隊の駐屯地となり、旧「陸士」本部の建物は「1号館」となった。「1号館」は1970(昭和45)年、作家の三島由紀夫がバルコニーで自衛隊員にクーデターの決起を呼びかける演説を行い、その後、総監室内で割腹自殺した、いわゆる「三島事件」の舞台ともなっている。2000(平成12)年、六本木にあった「防衛庁」(現「防衛省」)の本庁などが「市ヶ谷台」へ移転してきており、「1号館」は、この移転のための新庁舎の建設に伴い解体、1998(平成10)年に一部が移設され、現在は「市ヶ谷記念館」(写真)として公開されている。元の「1号館」は3階建てであったが、復元後は2階建てとするなど、規模は大幅に縮小されている。
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旧「陸士」本部の建物内にあった大講堂は、1946(昭和21)年から1948(昭和23)年まで「極東国際軍事裁判」の法廷として利用された。「極東国際軍事裁判」は、連合国が日本の主要戦争犯罪人に対して行った国際裁判で、写真は1946(昭和21)年の法廷内の様子。写真の左側に判事席、右側に被告席が置かれた。正面には玉座があったが、撤去され通訳ブースが置かれ、その下に検察官や弁護人が並んだ。【画像は1946(昭和21)年】

「市ヶ谷記念館」には「1号館」(旧「陸士」本部)内にあった大講堂も移築復元されており、「極東国際軍事裁判」の時に撤去された玉座も復元されている。

「陸軍戸山学校」と軍楽隊

1873(明治6)年、尾張藩徳川家の下屋敷跡に「陸軍兵学寮戸山出張所」が設置され、翌年「陸軍戸山学校」と改称。ここでは射撃などの訓練が行われた。1945(昭和20)年、「太平洋戦争」の終戦により閉校となった。【画像は明治後期】

現在、「陸軍戸山学校」の跡地は「都立戸山公園 箱根山地区」「都営戸山ハイツアパート」などになっている。写真は、現在も残る「陸軍戸山学校」の将校集会所だった建物で、「日本基督教団戸山教会」と附属の「戸山幼稚園」が利用している。
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「陸軍戸山学校」には、1891(明治24)年、「軍楽学舎」(のちの「陸軍戸山学校軍楽隊」)が移転してきた。写真は、1915(大正4)年に「陸軍戸山学校」に建造された野外音楽堂「戸山楽園」の開園式で演奏する「陸軍戸山学校軍楽隊」。周囲の傾斜地が観客席となっており、1943(昭和18)年には反響板も作られたという。
MAP __【画像は1915(大正4)年】

写真は「都立戸山公園」内の「軍楽隊野外音楽堂跡」。「陸軍戸山学校軍楽隊」は、戦後の日本の音楽界の発展にも大きく寄与した。現在では世界的なフルートメーカーとなった「ムラマツ」の創業者、村松孝一氏は大正期に「陸軍戸山学校軍楽隊」に所属していた。戦後、日本を代表する作曲家となった團伊玖磨氏、芥川也寸志氏は、「東京音楽学校」(現「東京藝術大学」)の学生であった戦時中に入隊している。また、多くの出身者が戦後に「新交響楽団」(「NHK交響楽団」の前身)などプロのオーケストラの団員として活躍している。

「市谷監獄」と「東京監獄」

牛込区には、明治の一時期、「市谷監獄」と「東京監獄」が並ぶようにあった。「市谷監獄」は江戸期の日本橋にあった「伝馬町牢屋敷」を前身とし、1875(明治8)年に市谷へ移転、「市谷谷町囚獄役所」となり、1903(明治36)年に「市谷監獄」へ改称。1910(明治43)年に豊多摩郡野方村(現・中野区)に移転し、「豊多摩監獄」となった。

東京監獄」は1903(明治36)年、「東京駅」建設のため鍛冶橋より牛込区市谷富久町(現・新宿区富久町、「市谷監獄」の西側)に移転。1922(大正11)年に「市谷刑務所」と改称された。当初は未決囚を拘置していたが、のちに死刑囚の収監と処刑も行うようになり、1911(明治44)年には幸徳秋水ら「大逆事件」の死刑囚の処刑も行われた。1937(昭和12)年、「巣鴨刑務所」の跡地に移転し「東京拘置所」と改称されている。

写真は「市谷刑務所」時代の外観。江戸時代の「市谷監獄」「東京監獄」の場所は、それぞれ概ね松山藩板倉家、田中藩本多家の下屋敷であった。【画像は1930(昭和5)年頃】

現在、「市谷監獄」跡地は市谷台町一帯で都道などになっている。「市谷刑務所」の跡地は「東京都立総合芸術高等学校」などになっており、「富久町児童遊園」には「刑死者慰霊塔」(写真)が建てられている。
MAP __(市谷監獄跡地付近) MAP __(富久町児童遊園)

明治中期に搾乳業が発展した四谷・牛込

明治期に入ると、都心部(麹町・神田・日本橋など)にあった広大な武家屋敷の跡地は、士族授産(武士の失業対策)も兼ねて払い下げられ、農地のほか、搾乳業のための牧場として利用された。当時、牛乳の飲用は普及していなかったが、「富国強兵」政策の下、肉食とともに推奨されるようになり、新聞などにより効用の宣伝も行われた。当初牧場は、輸送手段の問題や保存手段が未発達だったこともあり、消費地に近い都心部に開かれたが、明治10年代~30年代になると周辺部へ移転、四谷区、牛込区でも牧場が多く見られるようになった。1893(明治26)年の統計では、搾乳業者数・乳牛頭数は、四谷区で4軒・34頭、牛込区で25軒・212頭となっている。図は明治前期、四谷区麹町十二丁目(現・四谷一丁目)で開業した「四谷軒」で、ここで搾乳し販売していた。【図は1885(明治18)年頃】

明治後期以降、牧場は郡部などさらに郊外へ移転していった。「四谷軒」は1887(明治20)年に豊多摩郡内藤新宿町大字内藤新宿北裏町(のちの四谷区花園町、現・新宿一丁目26番付近)に「四谷軒牧場」を開設した。この「四谷軒牧場」は1930(昭和5)年、現在の世田谷区赤堤に移転したのち、戦後も世田谷区内で最後の牧場となるまで営業を続けたが、1985(昭和60)年に閉鎖となった。写真は開業当初の場所となる、麹町十二丁目時代の「四谷軒」跡地。2020(令和2)年に完成した再開発地区「CO・MO・RE YOTSUYA(コモレ四谷)」の一角にあたる。
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印刷と出版の街

「秀英舎」は1876(明治9)年、現在の銀座四丁目で創業した印刷会社。1886(明治19)年に牛込区市谷加賀町に「秀英舎第一工場」を開設し、1903(明治36)年の統計では東京市で職工数が一番多い印刷工場(751人、全市の職工数の約16%)まで成長した。この当時の「秀英舎」は、東京で発行されていた雑誌の約2/3、180種以上を印刷していたという。明治期まで、牛込区の主な印刷会社は「秀英舎」のほかには、1907(明治40)年設立の「日清印刷」くらいであった。「関東大震災」後、被災した銀座の「秀英舎」本店・工場は、「第一工場」があった牛込区市谷加賀町へ移転、さらに、ほかの印刷工場も牛込区に集まるようになっていった。写真は1926(大正15)年に竣工した、「秀英舎」本店の時計台がある営業所。【画像は1930(昭和5)年頃】

「秀英舎」は1935(昭和10)年に「日清印刷」と合併し、「大日本印刷」となった。写真は現在の「大日本印刷」周辺の様子。一帯では2010(平成22)年より「大日本印刷市谷工場整備事業」が行われた。時計台のある建物は、かつての姿に復元され、2021(令和3)年、活版印刷の歴史の展示などを行う文化施設「市谷の杜 本と活字館」としてオープンした。
MAP __(市谷の杜 本と活字館)

現在、新宿区矢来町に本社がある出版社の「新潮社」は、「秀英舎」に勤めていた佐藤義亮氏が牛込区で1896(明治29)年に創業した「新聲社」を前身としている。神楽坂周辺をはじめ、四谷・牛込一帯には多くの出版社や出版関係の会社が構えており、印刷業と出版業は新宿区の地場産業として発展している。
MAP __(新潮社)


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