水戸徳川家の初代・徳川頼房(よりふさ)は、江戸初期に徳川将軍家より「武蔵野台地」の一部、「小石川台地」の先端付近の低湿地を拝領、1629(寛永6)年に「小石川屋敷」(中屋敷)を築いた。この時の将軍は三代・徳川家光で、頼房と親密であったこともあり、「神田上水」は敷地内を通過するように引き入れられた。頼房は京都の作庭家・徳大寺左兵衛に命じ、庭園の造成を始めるが、家光は「大泉水」(「神田上水」の水を利用した、庭園の中心となる池)の造営を指図するなど、作庭にも関与している。図は江戸中期、享保年間(1716~1736年)以降に作成された園内図の写し。
「後楽園」の名称は江戸初期の水戸徳川家の「小石川屋敷」の大名庭園に始まる。「小石川屋敷」の敷地は明治期に陸軍の軍事工場「東京砲兵工廠」となったが、庭園は残された。昭和戦前期に「東京砲兵工廠」は小倉へ移転し、工廠の跡地は払い下げられ「後楽園球場」が誕生、庭園部分は「小石川後楽園」として国の史蹟および名勝に指定され、1938(昭和13)年より東京市の公園として公開されるようになった。