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産業の発展、賑わいを増す街

住宅地、行楽地として発展した鉄道沿線を中心に、産業も発展し、撮影所や紡績工場なども設けられた。「新興キネマ」は東大泉に撮影の拠点を置き、「練馬駅」北口には広大な敷地を有する工場もあった。また「大泉霊園」は国内の動物霊園の先駆けとなった。


「新興キネマ東京撮影所」から「東映東京撮影所」へ MAP __

昭和戦前期、映画撮影所が郊外へ移転していく中、1935(昭和10)年、東大泉に「新興キネマ東京撮影所」が建設された。戦時下では閉鎖されていたものの、戦後「太泉スタヂオ」が設立され貸スタジオとして復活。1951(昭和26)年、合併により「東映」が設立され、「東映東京撮影所」となった。ここでは主に現代劇が制作された。【画像は1956(昭和31)年】

古写真の場所は東映系のシネマコンプレックス「T・ジョイSEIBU大泉」になっており、隣接して現在も「東映東京撮影所」がある。

「練馬駅」北口にあった「鐘淵紡績練馬工場」 MAP __

1921(大正10)年、「練馬駅」の北側で「大日本紡織」の「練馬工場」が操業を開始。買収や吸収合併を経て、1941(昭和16)年に「鐘淵紡績練馬工場」となった。戦後、一時は日本のフェルトの3分の1を生産するまでに発展した。【画像は1956(昭和31)年頃】

1970(昭和45)年に閉鎖、その後、北口一帯で都市開発が行われた。【画像は1977(昭和52)年頃】

跡地には1983(昭和58)年に「練馬文化センター」、1994(平成6)年に「平成つつじ公園」が誕生、2014(平成26)年には官民複合施設「Coconeri(ココネリ)」もオープンした。

国内の動物霊園の先駆けとなった「大泉霊園」 MAP __

1908(明治41)年に「動物愛護供養会」が発足。1929(昭和4)年、現在の練馬区大泉町に、当時国内唯一の「犬猫の寺」といわれた大塚の「西信寺」別院となる動物墓地「大泉霊園」が誕生した。現在ほどペットの供養が一般的ではなかった時代において、動物用の火葬場、納骨堂、墓地などが備わった貴重な施設だった。【画像は昭和前期】

現在も「大泉霊園」は動物墓地として知られている。

写真は動物火葬場の入口。【画像は昭和前期】

園内には慰霊塔も設けられている。【画像は昭和前期】


牧野富太郎が愛した『我が植物園』 MAP __

大泉自邸の牧野富太郎

大泉自邸の牧野富太郎
【画像は1949(昭和24)年】

『植物分類学の父』といわれる植物学者、牧野富太郎。その生涯において、実に1,500種もの新種・新品種を命名し、40万枚の標本を収集した。

1862(文久2)年、現在の高知県高岡郡佐川町の商家に生まれた富太郎は、寺子屋や小学校で学んだ後、植物採集に興味を抱き、研究をスタートさせた。1881(明治14)年「第二回内国勧業博覧会」の見物に上京し、「文部省博物局」へ博物学者の田中芳男らを訪ねている。1884(明治17)年に二度目の上京。(旧)「東京大学」(のちの「帝国大学」「東京帝国大学」、現「東京大学」)の植物学教室への出入りを許され研究に没頭する。しかし、研究費を湯水のように使ったため、実家の経営が悪化、1891(明治24)年には帰郷することとなる。

「練馬区立牧野記念庭園」の入口

「練馬区立牧野記念庭園」の入口。

1893(明治26)年、「帝国大学理科大学助手」に招かれ再び上京、1926(大正15)年に大泉村(現・練馬区東大泉)へ居を構えるようになる。1927(昭和2)年、理学博士の学位が授けられたが、一方で自らが平凡になったと残念に思う気持ちもあったという。

1939(昭和14)年に大学を退官。さらに植物へ情熱を注ぎ、日本全国を飛び回るようになった。90歳頃からは大泉の自宅で長い時間を過ごすようになるが、病床についてからも、寝る間を惜しみ研究を続けたという。1957(昭和32)年、94歳で永眠。生涯のうち、晩年の32年間を過ごし『我が植物園』としてこよなく愛した大泉の邸宅は、1958(昭和33)年に「練馬区立牧野記念庭園」となり、一般に公開されている。


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