大泉自邸の牧野富太郎
【画像は1949(昭和24)年】
『植物分類学の父』といわれる植物学者、牧野富太郎。その生涯において、実に1,500種もの新種・新品種を命名し、40万枚の標本を収集した。
1862(文久2)年、現在の高知県高岡郡佐川町の商家に生まれた富太郎は、寺子屋や小学校で学んだ後、植物採集に興味を抱き、研究をスタートさせた。1881(明治14)年「第二回内国勧業博覧会」の見物に上京し、「文部省博物局」へ博物学者の田中芳男らを訪ねている。1884(明治17)年に二度目の上京。(旧)「東京大学」(のちの「帝国大学」「東京帝国大学」、現「東京大学」)の植物学教室への出入りを許され研究に没頭する。しかし、研究費を湯水のように使ったため、実家の経営が悪化、1891(明治24)年には帰郷することとなる。
「練馬区立牧野記念庭園」の入口。
1893(明治26)年、「帝国大学理科大学助手」に招かれ再び上京、1926(大正15)年に大泉村(現・練馬区東大泉)へ居を構えるようになる。1927(昭和2)年、理学博士の学位が授けられたが、一方で自らが平凡になったと残念に思う気持ちもあったという。
1939(昭和14)年に大学を退官。さらに植物へ情熱を注ぎ、日本全国を飛び回るようになった。90歳頃からは大泉の自宅で長い時間を過ごすようになるが、病床についてからも、寝る間を惜しみ研究を続けたという。1957(昭和32)年、94歳で永眠。生涯のうち、晩年の32年間を過ごし『我が植物園』としてこよなく愛した大泉の邸宅は、1958(昭和33)年に「練馬区立牧野記念庭園」となり、一般に公開されている。