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豊臣秀吉が築いた「伏見城」と伏見の街

豊臣秀吉は1594(文禄3)年に「伏見城」を築き、城下町の整備を開始した。秀吉は「太閤堤」「豊後橋」(現「観月橋」)の工事など、「宇治川」「巨椋池(おぐらいけ)」の治水事業を行い、河川の交通を「伏見城」城下にまとめたことで、伏見の街の発展につながった。やがて、伏見は京都と大坂をつなぐ中継地として繁栄し、この地で生産される酒は、全国的に有名となった。


秀吉が築き、家康が再建した「伏見城」

「伏見城」は、豊臣秀吉により2回、徳川家康によって1回、合計3回築城された。1594(文禄3)年、秀吉により伏見・指月(しげつ)の地に建てられた「指月伏見城」は、「慶長の大地震」で倒壊。1597(慶長2)年に近隣の「木幡山(こはたやま)」に再建されたものが、「木幡山伏見城」と呼ばれた。秀吉の死後、家康の部下、鳥居元忠が城将となったが、「関ケ原の戦い」の前哨戦で落城。1602(慶長7)年頃に家康により再建されたが、1623(元和9)年に廃城となった。画像は「木幡山伏見城」と城下町を描いた図で、中央右の赤い部分が「伏見城」、茶色が大名(武家)屋敷、白色が町家など。図の下(南)側の向島には徳川家康の大きな屋敷(「向島城」)があり、向島と伏見を結ぶ橋が「豊後橋」(現「観月橋」)。また、図に示した「伏見港」周辺は町家が多くある様子がわかる。中央左の町家に挟まれ縦に延びる道が「両替町通」と「京町通」となる。
MAP __(指月伏見城跡地)MAP __(木幡山伏見城跡地)MAP __(向島城跡地)【図は1881(明治14)年】

かつての「木幡山伏見城」の城域には、明治天皇の「伏見桃山陵」なども含まれる。1964(昭和39)年、「木幡山伏見城」の「花畑曲輪」跡付近に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が開園、桃山時代から江戸時代前期に制作された『洛中洛外図』を参考に、鉄筋コンクリート造の模擬天守「伏見桃山城」(写真)も造られた。
MAP __(伏見城模擬天守)

「伏見桃山城キャッスルランド」は2003(平成15)年に閉園した。写真は閉園当日、「伏見桃山城」から撮影した「伏見桃山城キャッスルランド」。「伏見桃山城」は、地元の要望から伏見のシンボルとして保存されることになり、京都市に寄贈された。かつての遊園地の敷地は「伏見桃山城運動公園」として整備されている。【画像は2003(平成15)年】

豊臣秀吉が城下町・伏見に開いた「伏見港」 MAP __

「伏見城」を築いた豊臣秀吉は、「巨椋池」に合流する「宇治川」の付け替えなど大規模な治水工事を行った。秀吉は「巨椋池」内の島々を結んで「太閤堤」と呼ばれる堤防を築き、「宇治川」の流れをまとめて、伏見の町に引き寄せた。これにより、「宇治川」の水深が確保され、水路として利用できるようになった。さらに「宇治川」と「濠川」を結ぶ場所に「伏見港」を整備した。江戸時代には、伏見・大坂間を結ぶ「三十石船」が往来するなど「伏見港」は、水上交通の中継地として賑わい、「寺田屋」に代表される船宿も多く置かれた。また、角倉了以(すみのくらりょうい)らによる「高瀬川」開削で、「伏見港」は京都・伏見間の物資輸送にも大きな役割を果たした。

図は江戸末期に描かれた「伏見港」の様子。「京橋」の西側から東方面を望んでおり、奥の橋が「蓬莱橋」。船宿、土産店、飲食店などで賑わう様子が描かれている。【図は1863(文久3)年】

現在の「京橋」から「蓬莱橋」方面を望む。現在この水路は「宇治川派流」と呼ばれ、両岸には遊歩道が整備されている。

秀吉の「豊後橋」を再架橋し「観月橋」が誕生 MAP __

「観月橋」は、古くは「桂橋」といい、周辺は月の名所としても知られていたという。その後、秀吉が伏見と向島の間を流れる「宇治川」に架けた橋は、豊後の大友氏が工事を行ったことから「豊後橋」と呼ばれていた。幕末の「鳥羽・伏見の戦い」で、この橋が焼け落ち、1873(明治6)年に再架橋された際、月の名所にちなんで「観月橋」と命名された。【画像は昭和戦前期頃】

「観月橋」は1936(昭和11)年に現在の橋へ架け替えられた。1975(昭和50)年には並行して「新観月橋」(写真上部)も架けられている。

伏見の酒蔵 「笠置屋」は「月桂冠」へ MAP __

水に恵まれた伏見が酒どころとして知られるようになったのは豊臣秀吉の時代といわれる。江戸前期、伏見には83の酒造家があったが、内陸という立地で江戸などへの大量輸送に不利ということもあり次第に衰退、幕末期には「鳥羽・伏見の戦い」の戦火にも巻き込まれ、明治初期まで続いたのは「富翁」の「鮒屋(ふなや)」(現「北川本家」)と「笠置屋(かさぎや)」(現「月桂冠」)の2軒だけであった。明治中期以降、鉄道輸送網が発達すると内陸という立地の弱点も解消、京都市街などにあった酒蔵も伏見へ移転するなど、再び酒造りが盛んな街となり、現在では20を超える蔵元が「伏見酒造組合」に加盟するなど、兵庫県の「灘五郷」と並ぶ、日本酒の二大産地の一つとして発展している。

「笠置屋」は、1637(寛永14)年、初代大倉治右衛門が現在の京都府相楽郡笠置町から京都伏見に出てきて創業。明治期になると全国へと販路を広げ、1905(明治38)年には酒銘を「月桂冠」とした。写真は「笠置屋」の創業地に建てられた、居宅兼店舗および酒蔵の「大倉家本宅」前。大正天皇御即位大礼の御用酒を運ぶため、「京都御所」へ出発するところで、中央の洋装の人物が十一代目の大倉恒吉氏。【画像は1915(大正4)年】

築180年以上となる現在も当時の姿を残す「大倉家本宅」。「笠置屋」は「大倉酒造株式会社」などを経て、1987(昭和62)年に「月桂冠株式会社」となった。


城下町・伏見には、大名屋敷をしのぶ町名

「伏見大手筋商店街」にある「伏見銀座」跡の石碑

「伏見大手筋商店街」にある「伏見銀座」跡の石碑。
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安土桃山時代の終わり頃、豊臣秀吉が「伏見城」を築き、政治の中心としたことで、周辺には大名屋敷が建てられ、城下町が形成された。現在も伏見区(桃山地区)の地名には、大名の名前や領国にちなんだものが数多く残されている。また、秀吉の後を継いだ徳川家康も、銀貨鋳造発行所である「銀座」を設けるなど、当時日本最大の城下町だった伏見の整備を行った。

秀吉が1594(文禄3)年の「伏見城」築城とともに整備を進めた城下町では、町割や開発が行われた。城を取り囲むように南西に大名屋敷が置かれ、その城西側の町中心部を囲むように外濠が造られた。掘られた土砂は外堀のさらに西側の低湿地帯の埋め立てに使用された。町の中心部には南北に「京町通」と「両替町通」が整備され、町人らが住む商業地が形成された。家康や加藤清正、石田三成らの屋敷は、複数存在したが、その屋敷跡にはそれぞれ領国や官職にちなんだ「桃山町三河」「肥後町」「桃山町治部少丸(じぶしょうまる)」などの町名が残っている。

城下町の西側には、城の外濠となる「濠川」が開かれ、その後、さらに西側に角倉了以・素庵(そあん)親子により、「高瀬川」が開削されている。町人地の中心となったのは、南北に延びる「京町通」、「両替町通」沿いの地域であり、南から一丁目、二丁目…と分けられた。現在はこの付近を京阪、近鉄両線が走っている。

「銀座」は「関ケ原の戦い」の翌年、1601(慶長6)年に家康が日本で初めて設けた。その跡地には、石碑と案内板が建てられ、銀座町一~四丁目の町名に名残がある。この場所は南北に長い両替町の中央部分(五~八丁目)にあたる。また、1666(寛文6)年に江戸幕府により置かれた「伏見奉行所」は、現在の「桃陵団地」付近にあった。奉行前町、西奉行町などの町名があり、団地内には石碑もある。


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