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江戸期に始まる『文の京』

現在の文京区域には、「昌平坂学問所」と「湯島聖堂」が、また「傳通院」には「関東十八檀林」の一つが置かれるなど、江戸期から文教の地となっていた。明治期になると「昌平坂学問所」跡地に官立の「師範学校」、「東京女子師範学校」が置かれ、日本の教育を支える人材を輩出するようになった(ただし、この場所は1878(明治11)年の「郡区町村編制法」の施行当初は神田区(現・千代田区)で1886(明治19)年に本郷区(現・文京区)へ編入)。のちに両校とも小石川区(現・文京区)の大塚に移転しており、昭和初期、跡地に「東京高等歯科医学校」が移転してきている。このほか、明治期以降「東京大学」をはじめ、多くの学校が置かれる地となり、まさに『文の京(ふみのみやこ)』として発展した。


「昌平坂学問所」と「湯島聖堂」 MAP __(湯島聖堂)

1630(寛永7)年、林羅山は三代将軍・徳川家光より上野忍岡に土地を与えられた。翌々年、私塾(のちに「弘文館」と呼ばれる)と孔子廟「先聖殿」が設けられ、以降、儒学の教育と、孔子やその弟子たちを祀る儀式が行われた。1690(元禄3)年、五代将軍・徳川綱吉の命により、私塾と孔子廟は、湯島へ移転。新しい孔子廟は「大成殿」と命名され、一帯は「聖堂」「湯島聖堂」とも呼ばれるようになった。同時に、移転先の東側にあった坂は、孔子の生誕地「昌平郷」にちなみ「昌平坂」と命名された。

その後、「寛政の改革」の中で、1790(寛政2)年、学問所は幕府直轄で「朱子学」を教える「昌平坂学問所」(「昌平黌(こう)」とも呼ばれた)となり、以降、幕臣・藩士などの教育が行われた。この頃から「聖堂」「湯島聖堂」は孔子廟(「大成殿」)の建物のみを指すようになった。図は江戸末期、『江戸名所図会』に描かれた「大成殿」(図内では「大聖殿」と表記)。左側に「学問所」、右下に「昌平坂」の文字が見える。【図は江戸末期】

「昌平坂学問所」は、「明治維新」後は「昌平学校」、次いで「大学本校」となったのち、1871(明治4)年に廃校となるが、その系譜は後の「東京大学」へ連なっている。「大成殿」(「湯島聖堂」)は、建立以来、何度か火災に遭うが、1799(寛政11)年に再建された建物は、1923(大正12)年の「関東大震災」(以下震災)で焼失するまで残っていた。写真は震災前年頃の「湯島聖堂」。【画像は1922(大正11)年頃】

焼失した「湯島聖堂」の建物は、1935(昭和10)年、伊東忠太の設計により、鉄筋コンクリート造で再建された。写真は昭和戦前期、震災復興後に撮影された「湯島聖堂」。【画像は昭和戦前期】

1872(明治5)年、日本最初の博覧会「湯島聖堂博覧会」が開催され、「湯島聖堂」内に「文部省博物館」が設立された。1875(明治8)年、「東京博物館」に改称されたのち、1877(明治10)年、上野に「教育博物館」が開館、さらに1881(明治14)年「東京教育博物館」へ改称となった。1889(明治22)年、「東京教育博物館」が上野から「湯島聖堂」内へ移転、隣接する「高等師範学校」の附属施設に(1914(大正3)年分離独立)。1917(大正6)年には、「上野公園」で1914(大正3)年に開催された「東京大正博覧会」の「教育学芸館」の建物が移築され、「東京教育博物館」の新陳列館(写真奥)となった。1921(大正10)年に再び「東京博物館」へ改称するも、震災で資料・建物とも焼失した。震災後は上野へ移転となり、「東京科学博物館」(現「国立科学博物館」)となった。
MAP __(新陳列館跡地)【画像は大正中期】

写真は現在の「湯島聖堂」の遠景。中央左の建物が「湯島聖堂」、その右下の建物(現「斯文(しぶん)会館」)付近が、「東京教育博物館」の新陳列館跡地となる。

「昌平坂学問所」跡地から発展した3つの国立大学

明治期に入り、「昌平坂学問所」跡地のうち、東寄りには官立(国立)の「師範学校」(「筑波大学」の前身)、西寄りには官立の「東京女子師範学校」(「お茶の水女子大学」の前身)が設立された。写真は明治後期頃の撮影。右端の建物が「湯島聖堂」、中央右が「高等師範学校」または「東京高等師範学校附属中学校」、その左が「女子高等師範学校」または「東京女子高等師範学校」となる。昭和初期、両校の跡地へ官立の「東京高等歯科医学校」が移転してきており、現在は「東京医科歯科大学 湯島キャンパス」となっている。【画像は明治後期頃】

「東京師範学校」から「筑波大学」へ

1872(明治5)年、湯島の「昌平坂学問所」跡のうち、東側の建物と敷地を利用し、小学教員養成のため、官立の「師範学校」が開校(翌年「東京師範学校」に改称)した。その後、小学教員養成は府県立の師範学校が担うようになったことから、中等教員の養成機関として発展。1886(明治19)年に「高等師範学校」となり、1902(明治35)年、「東京高等師範学校」へ改称。この翌年、大塚へ移転した。写真は1900(明治33)年頃、「高等師範学校」と呼ばれていた時期の撮影。その後、湯島の校舎は「東京高等師範学校附属中学校」が1910(明治43)年まで利用した。
MAP __【画像は1900(明治33)年頃】

「東京高等師範学校」は教員養成の学校であったが、1929(昭和4)年に「東京文理科大学」が併設され、研究にも重点が置かれるようになった。写真は1931(昭和6)年頃の「東京高等師範学校」および「東京文理科大学」の正門。
MAP __【画像は1931(昭和6)年頃】

戦後の1949(昭和24)年、「東京高等師範学校」、「東京文理科大学」などを包括し、新制の総合大学「東京教育大学」が開学した。大塚の「本部キャンパス」には、文学部・理学部・教育学部(農学部は駒場、体育学部は幡ヶ谷)が設置され、中学校・高等学校の教員養成のほか、各分野の研究も行われた。写真は1956(昭和31)年頃の様子で、前掲の1931(昭和6)年頃撮影の写真とほぼ同地点からの撮影となっている。【画像は1956(昭和31)年頃】

1963(昭和38)年、政府は「筑波研究学園都市」の建設を決定、その一環で「東京教育大学」の筑波への移転が計画された。その後、学生らによる反対運動もあったが、1969(昭和44)年に筑波移転が決定、1973(昭和48)年、「筑波大学」が開学、「東京教育大学」は移行期間を経て1978(昭和53)年に閉校となった。現在、「東京教育大学 本部キャンパス」の跡地には、「教育の森公園」(1986(昭和61)年開園、写真左)や「筑波大学 東京キャンパス文京校舎」・「放送大学 東京文京学習センター」(写真右)などがある。

「東京高等師範学校」が移転した大塚の校地は、江戸期には「守山藩松平家上屋敷」が置かれていた。この屋敷の庭園「占春園」は移転後も残され、学生の憩いの地として利用された。現在は「筑波大学附属小学校」の校地の一部となっているが、一般に開放されている。写真は現在の「占春園」で、一画に置かれている銅像(写真中央奥)は、「高等師範学校」「東京高等師範学校」の校長を務めた嘉納治五郎。彫塑家・朝倉文夫が1936(昭和11)年に制作し、「東京高等師範学校」の旧本館前に建てられていたが、戦時中に供出。1958(昭和33)年、その原型を用い、この地に再建された。
MAP __(占春園)

「東京女子師範学校」から「お茶の水女子大学」へ

1875(明治8)年に開校した官立の「東京女子師範学校」は、児童教育における女子教員養成のための学校で、校地は、湯島の「昌平坂学問所」跡のうち、西側の敷地が利用された。この一帯は、江戸期より「御茶ノ水」と呼ばれていた。開校の翌年に幼稚園(「お茶の水女子大学附属幼稚園」の前身)、翌々年には附属小学校(「お茶の水女子大学附属小学校」の前身)、1882(明治15)年に附属高等女学校(「お茶の水女子大学附属中学校・高等学校」の前身)も校内に設置されている。1885(明治18)年、隣接する「東京師範学校」に吸収合併され、その「女子部」となり、翌年「東京師範学校」が「高等師範学校」になると、その「女子師範学科」となった。1890(明治23)年、「高等師範学校」から「女子師範学科」を分離、女子中等教育の教員養成のための「女子高等師範学校」となり、1908(明治41)年に「東京女子高等師範学校」へ改称された。

写真は明治後期、「女子高等師範学校」時代の撮影。当時の官立学校の中で、女子学生の最高学府であり、教員養成のほか、国内の女子教育の発展にも貢献した。
MAP __【画像は明治後期】

「御茶ノ水」の校舎は1923(大正12)年の震災で多大な被害を受け、この地の仮校舎で再開されたのち、1928(昭和3)年、大塚の新校地での復興が決定し翌年に着工、以降、順次移転し、1936(昭和11)年に移転が完了した。「御茶ノ水」の校地には、1930(昭和5)年から「東京高等歯科医学校」(のちの「東京医科歯科大学」)が移転してきている。写真は旧写真の同地点付近から撮影した現在の様子。

写真は、「東京女子高等師範学校」の大塚の新校地の正門で、正面が「本館」。終戦直後の1945(昭和20)年、「東京女子高等師範学校」を「東京女子帝国大学」へ昇格する案が検討されたが実現しなかった。1949(昭和24)年、大塚の校地に後身となる新制大学の「お茶の水女子大学」が開校。大塚にありながらも校名に「お茶の水」と命名されたのは、前身の「東京女子高等師範学校」の創設地「御茶ノ水」を記念してのこと。
MAP __【画像は昭和初期】

「お茶の水女子大学」は、国立で2つしかない女子大学の1つであり、長年にわたり様々な分野へ人材を輩出している。写真は現在の正門で、正面の「生活科学部本館」は、かつての「東京女子高等師範学校」の「本館」。2008(平成20)年には「大学本館」「大学正門」などが国の登録有形文化財となっており、2017(平成29)年には「大学正門」の門扉などの復元改修が行われている。

「東京高等師範学校」の跡地に移転してきた「東京高等歯科医学校」

官立の「東京高等歯科医学校」は日本で最初の歯学教育機関で、1928(昭和3)年、一ツ橋の「東京商科大学」(現「一橋大学」)の校舎を借りて開校した。1930(昭和5)年、「東京高等師範学校附属中学校」の跡地と、それに隣接する「東京女子高等師範学校」の校地(当時、大塚への移転が進行中であった)へ移転。1944(昭和19)年、医学科を設置し「東京医学歯学専門学校」となり、戦後に「東京医科歯科大学」となった。写真は1956(昭和31)年頃の様子。 MAP __【画像は1956(昭和31)年頃】

現在は「東京医科歯科大学 湯島キャンパス」となっており、「東京高等師範学校」の跡地付近は「歯科棟」など、「東京女子高等師範学校」の跡地付近は「医科新棟」「M&Dタワー」などがある。2024年、「東京医科歯科大学」は「東京工業大学」と統合となり、「東京科学大学(仮称)」が設立される予定になっている。


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