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深川周辺の発展

深川周辺は、江戸期に運河・水路が張り巡らされ、「江戸の水郷」ともいえる風光明媚な風景が生まれた。古くからの寺社や、海岸沿い埋め立て地など、さまざまな場所が江戸の名所として知られるようになり、町民の行楽地として賑わった。


平安後期に始まるといわれる「猿江神社」 MAP __

「猿江神社」は、平安後期、源義家が「前九年の役」で出征する途中、この地の入江で家臣・猿藤太(さるのとうた)が亡くなった、あるいは入江に屍が流れ着いたため、地元の人たちが祠を建てて手厚く葬ったことに始まるといわれ、猿江の地名の由来ともなっている。正確な創建年は不明ながら、1058(康平元)年頃にはすでに地元の信仰を集めていたという。写真は昭和戦前期の撮影で、この鉄筋コンクリート造りの社殿は、「関東大震災」からの復興で1931(昭和6)年に建設されたもの。【画像は昭和戦前期】

震災復興で建設された鉄筋コンクリート造りの社殿は、近隣一帯が焦土となった「東京大空襲」では焼失を免れ、現在も使用されている。

江戸期の洲崎 MAP __(洲崎神社)

洲崎(すさき)は、江戸前期の元禄年間(1688年~1704年)に埋め立てられて誕生した地で、1700(元禄13)年には、「江戸城」内「紅葉山」の弁財天を洲崎に遷座し「洲崎弁天社」が創建された。図は江戸末期、歌川広重が描いた『東都名所 洲崎弁才天境内全図 同海浜汐干之図』。江戸期の洲崎は海を望む景勝地で、潮干狩りの名所としても知られた。【図は江戸末期】

「洲崎弁天社」は明治に入ると「洲崎神社」へ改称された。画像は現在の「洲崎神社」。江戸期に潮干狩りが行われていた場所は、明治期に埋め立てられ工業地となり、現在はショッピングセンター・オフィスなどからなる「深川ギャザリア」をはじめ、マンション、オフィスビルなどがある。

根津から移転させられた「洲崎遊郭」

明治前期、本郷に「東京大学」が開校し、さらに「帝国大学」としての整備が計画されると、近くにあった「根津遊郭」が風紀上、問題視されるようになり、1888(明治21)年、「根津遊郭」は洲崎へ移転させられ「洲崎遊廓」となった。写真は1909(明治42)年頃の「大八幡楼」。「根津遊郭」時代からの大店で、時計塔がある建物と庭園は、東京市内でも有名であったが、1914(大正3)年頃の火災で焼失した。
MAP __【画像は1909(明治42)年頃】

写真はかつて「大八幡楼」の時計塔があった場所付近。現在は駐車場などになっている。

写真は「洲崎遊郭」の中心の大通りであった「中の街通り」で、左は「根津遊郭」時代からの大店「甲子楼(きのえねろう)」。「洲崎遊郭」は戦時中に閉鎖され、一部の業者は立川へ疎開し、羽衣町で営業するようになった。「洲崎遊郭」の跡地は軍需工場の宿舎などに利用されたが、「東京大空襲」で一帯は壊滅した。
MAP __【画像は明治後期】

戦後は歓楽街「洲崎パラダイス」として賑わうようになったが、1958(昭和33)年の「売春防止法」施行以降、住宅地へと変わっていった。写真は現在の洲崎の「大門通り」。

昭和初期の「高橋停留場」付近MAP __

写真は昭和初期の「高橋停留場」付近の様子。通り沿いに商店や飲食店があり賑わいを見せている。この区間の路面電車は1908(明治41)年に開通、のちに市電(都電)高橋線となり、1972(昭和47)年に廃止された。【画像は昭和初期】

現在、中央の通りは「清澄通り」と呼ばれ、地下に都営大江戸線が通っている。この交差点から東(写真では右)に延びる「高橋商店街」は、戦前は露店を中心とした商業地として賑わっていた。現在、「高橋商店街」内に江東区にゆかりがある漫画家の展示施設「田河水泡・のらくろ館」があり、この通りは「高橋のらくろード」と呼ばれている。


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