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「軍都」として発展した相模原

相模原は1937(昭和12)年に「陸軍士官学校」が移転してきて以降、多くの軍施設が立地するようになり、1939(昭和14)年には「相模原都市建設区画整理事業」で幹線道路などの都市基盤が整備され「軍都」として発展。1941(昭和16)年には周辺8町村が合併し、当時の町としては国内最大となる相模原町が誕生した。


「相武台」の地名の発祥となった「陸軍士官学校」 MAP __

「陸軍士官学校」は1874(明治7)年に開校した陸軍将校の養成機関。1937(昭和12)年9月に本科が市ヶ谷から高座郡の座間村(同年12月より座間町、現・座間市)、新磯村(現・相模原市南区)に移転してきた。写真は「陸軍士官学校」の本部。この建物は現存していない。開校年の12月、同校卒業式に昭和天皇が訪れるに際し、下車される国鉄横浜線「原町田駅」(現・JR横浜線「町田駅」)から同校までの道路の改修工事が行われた。地元青年団らの奉仕により約2か月の短期間で完成。現在も地元では「行幸道路」と呼ばれている。この行幸の際、昭和天皇はこの地を「相武台」と命名、現在まで続く地名が誕生した。「陸軍士官学校」は、1945(昭和20)年6月、現在の長野県佐久市に「長期野営」と称して疎開、そのまま終戦を迎え閉校となった。終戦後は「米陸軍第1騎兵師団」が進駐、1950(昭和25)年に「米陸軍第8軍司令部」が設置され、「キャンプ座間」と呼ばれるようになった。【画像は昭和戦中期】

現在は「在日米陸軍司令部」などが置かれる「在日米陸軍」の中枢部となっている。また、1950年代に始まったという「日米親善盆踊り大会」をはじめとする基地開放イベントなどで、米軍と周辺住民との交流も行われている。1970(昭和45)年からは「陸上自衛隊」も共同使用するようになり、2013(平成25)年からは「陸上自衛隊中央即応集団司令部」も置かれている。

写真は移転間もないころ(1939(昭和14)年以前)の「大講堂」。入口の上には「日本陸軍」の「星章」が掲げられている。この建物は、現在も「キャンプ座間」内に現存、劇場「Music And Theater Workshop」となっている。「星章」があった部分には「在日米陸軍」の部隊章である「富士山」が掲げられている。MAP __【画像は昭和戦前期】

「相模陸軍造兵廠」と「戦車道路」 MAP __

1938(昭和13)年、「陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)東京工廠相模兵器製造所」が高座郡大野村・相原村(現・相模原市中央区)に開所され、1940(昭和15)年に「相模陸軍造兵廠」へ昇格した。ここでは1万人以上もの軍人と工員により、戦車などが生産されていた。国鉄(現・JR)横浜線には、従業員の通勤のため1941(昭和16)年に「相模原駅」、1944(昭和19)年に「相模仮乗降場」(現「矢部駅」)が開設された。

地図は「太平洋戦争」中となる1942(昭和17)年の「陸軍省」の文書の一部で、「造兵廠」から見て「境川」の対岸、東京府(現・東京都)側の「多摩丘陵」一帯に「戦車類運行試験場」(以下「戦車道路」)の計画道路が記されている。幅員は外周が20m、外周の内側が15mとかなり広く、範囲も現在の多摩センター(多摩市)、南大沢(八王子市)、多摩境、図師町(町田市)など広域にわたる全長約30kmもの大規模な計画であった。1943(昭和18)年に一部が完成、戦車の走行試験および操縦訓練が行われた。【地図は昭和戦中期】

「戦車道路」は、接収されず、昭和30年代には自衛隊の装甲車などの走行試験に、昭和40年代には「多摩ニュータウン」の工事車両の道路として使用された。その後、町田市が国から借り受け、1984(昭和59)年から「尾根緑道」として整備された。現在、毎年春には「町田さくらまつり」の一会場としても賑わっている。MAP __

「軍都計画」の中で誕生した住宅地「星ヶ丘」 MAP __

「相模原集団住宅」は「相模陸軍造兵廠」をはじめとする軍関連の施設や工場で働く労働者とその家族のために作られた住宅。1941(昭和16)年から「住宅営団」によって建設された。「住宅営団」直営の分譲36戸、賃貸216戸の計252戸(計画図左側)と、神奈川県から委託を受けて「住宅営団」が建設した県営の分譲104戸、賃貸272戸の計376戸(同右側)の合計628戸からなる大規模なものであった。衛生や防空上の観点から敷地を大きく採り、各住宅間の空間が大きくなるように建設されており、一戸当たりの平均床面積は約11.2坪と小規模なものであったが、敷地は平均約67坪と大きかった。1942(昭和17)年から居住が始まり、翌年、多くの住民の勤務先であった「造兵廠」にちなむ陸軍の「星章」と、高台から見える星の美しさから「星ヶ丘」という地名が命名された。

計画図からも充分な空地をもって計画されている様子がわかる。国民学校の予定地も記されているが、この場所に学校が開校したのは戦後。1948(昭和23)年に「相模原町立上溝小学校 星ケ丘分校」が開校、翌年に「相模原町立星ヶ丘小学校」として独立している。1968(昭和43)年の住居表示の実施で住所が「星が丘」となり、これに伴い「星ヶ丘小学校」も「星が丘小学校」へ名称が変更された。【図は1942(昭和17)年頃】

写真は現在の「相模原市立星が丘小学校」の北側から東方向を撮影したもので、右に防火のためと思われる水槽が見える。【画像は1942(昭和17)年頃】

「相模原市立星が丘小学校」の北側から北方向を撮影(過去の写真とは撮影方向は異なる)。水槽の場所は消防団の詰所となっている。


「相模原都市建設区画整理事業」と相模原町の誕生 MAP __(中央公園跡)

「相模原都市建設区画整理事業」

航空写真は、終戦後の1947(昭和22)年の撮影。終戦頃の軍施設名と、1940(昭和15)年当時の区画整理事業区域界を重ねたもの。

日本は昭和初期に戦時体制下に入り軍施設の拡充が必要となった。陸軍は東京から比較的近く平坦で、地価も安価でもあった「相模原台地」に着目し、1937(昭和12)年の「陸軍士官学校」の移転を皮切りに、「臨時東京第三陸軍病院」「相模陸軍造兵廠」「陸軍兵器学校」「陸軍電信第一連隊」「陸軍通信学校」「相模原陸軍病院」「陸軍機甲整備学校」を建設した。神奈川県は「軍都計画」の一環として、1939(昭和14)年に「相模原都市建設区画整理事業」を決定、翌年起工した。範囲は当時の上溝町、相原村、大野村、大沢村にわたる535万坪(約17.7㎡)の区域で、10万人が住む街を想定、住居地域、商業地域、工業地域、学校、公園などの配置も計画。「西門」と上溝を結ぶ現在の「市役所さくら通り」を縦の軸、現在の「国道16号」を横の軸とする街路網、両軸となる街路の交差点付近には「中央公園」が計画された。

陸軍施設の建設や区画整理が進むと、町村合併の気運が高まり、1941(昭和16)年、上溝町、座間町、相原村、大野村、大沢村、田名村、麻溝村、新磯村の高座郡の8町村が合併し、人口45,482人、面積108.71km2と、当時の町としては国内最大となる相模原町が誕生した。大和村(現・大和市)も合併する予定であったが村内での反対から実現しなかった。

区画整理事業は、終戦時にはまだ途中であった。1945(昭和20)年度までに幹線街路・補助線街路の骨格がほぼ完成、公園は1946(昭和21)年度までに「中央公園」と「児童公園」の整地を実施。その後、1950(昭和25)年に完了、整然とした現在の相模原の街並みの骨格が完成した。当初「中央公園」として整地された場所は公共用地に転換された。「中央公園」跡地には、現在「相模原警察署」「相模原郵便局」「相模原市体育館」「相模原市立中央小学校」「相模原市立中央中学校」「ウェルネスさがみはら」などの公共施設がある。


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