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震災・戦災からの復興

『火事と喧嘩は江戸の華』といわれたように、江戸期の江戸の町では火災が多く、「日本橋」周辺でも、一帯を類焼する大火に数度見舞われたが、その度にさらに繁栄する街として復活した。大正期以降も、1923(大正12)年の「関東大震災」による火災、さらに1945(昭和20)年、「太平洋戦争」中の「東京大空襲」による火災でも、一帯は大きな被害に遭ったが、復興を遂げ、再び日本を代表する商業地・オフィス街として発展した。


「震災復興三大公園」の一つとして整備された「浜町公園」

東京は、1923(大正12)年の「関東大震災」で大きな被害を受けたが、その震災復興事業の中で、防災都市を目指し、公園や道路の整備が進められた。「浜町公園」は、「震災復興三大公園」の一つ(ほかは「隅田公園」と「錦糸公園」)として計画・整備され、1929(昭和4)年に開園した。震災復興道路として整備された「第五号幹線」(現「清洲橋通り」)から、公園入口までは並木道も作られ、正面入口には噴水(写真中央)が設置された。正面奥には、被災した「日本銀行集会所」の建物の一部を利用した記念塔も建てられた(1945(昭和20)年に戦災で焼失)。
MAP __(噴水跡地) MAP __(記念塔跡地)【画像は昭和戦前期】

写真は現在の「浜町公園」。中央区内の公園の中では最大の面積を誇り、園内には「中央区立総合スポーツセンター」などの施設も整備されている。「浜町公園」の場所は、江戸期には大名屋敷が建ち並んでいた地で、江戸後期以降には「熊本藩細川家下屋敷」も置かれ、幕末期には敷地内に「清正公」の分霊が勧請され祀られた。明治期以降は細川家の本邸となり、1903(明治36)年より子爵・長岡護美(細川斉護の6男)邸となっていた。現在も公園に隣接して「清正公寺」がある。

「東京市十思尋常小学校」と「十思公園」 MAP __

「関東大震災」では多くの学校も罹災したため、東京市は復興事業の中で、1924(大正13)年度から1930(昭和5)年度の7年間に、117校もの復興小学校を建設した。校舎は耐震・耐火性の強い鉄筋コンクリート造りで、デザインは時代の先端とされたドイツ表現主義の影響を受けたものが多かった。また、復興小学校のうち52校には「震災復興小公園」(以下復興小公園)も併設され、防災の拠点としての役割も担った。旧・日本橋区には12校の復興小学校が建設された。写真は「東京市十思(じっし)尋常小学校」で、復興小学校としての建物は1928(昭和3)年に竣工。隣接して復興小公園の「十思公園」も設置された。

このあたりは、江戸期には「伝馬町牢屋敷」があった場所で、1875(明治8)年に「市谷谷町囚獄役所」(のちの「市谷監獄」)が設置され移転するまで使用されていた。【画像は1928(昭和3)年頃】

「東京市十思尋常小学校」は、1877(明治10)年、大伝馬塩町に創立された「十思小学校」を前身とし、合併・独立などののち、明治末年にこの地へ移転してきていた。戦後は「中央区立十思小学校」となり、多くの卒業生を輩出してきたが、1994(平成2)年に統合により閉校。その後、この建物は、中央区の出張所の仮庁舎などに利用され、2000(平成12)年に福祉施設などが入る「十思スクエア」としてオープンした。「十思スクエア」および「十思公園」内・周辺には、「小伝馬町牢屋敷展示館」、「吉田松陰終焉之地」碑、「大安楽寺」、「石町時の鐘」など、江戸期以降の日本橋の歴史を伝えるものが多くある。

戦災復興期の露店整理 MAP __

戦後、東京の街の大通り沿いなどに露店(ヤミ市)が多く立ち並び、復興期の住民の生活を支える存在となった。旧・日本橋区内では、通二丁目、人形町などに多く見られた。復興が進むと、都内各所にできていた露店は、秩序の悪化や道路の占拠など弊害が取り沙汰されるようになり、1949(昭和24)年、「GHQ」は交通・防災・衛生・美観上の理由から都内の公道の露店を撤去するよう指示、翌年、「東京都建設局」内に「臨時露店対策部」が設置され、「露店整理」が進められた。

東京都は「露店整理」後も店を続けたい業者に対して、資金融資の斡旋などの対策をとり、特に、協同組合を結成し共同店舗を建設する場合は、建設資金融資のほか、都有地の提供も行った。

日本橋周辺では、空襲の残土で埋立てられた「浜町川」跡の一部が提供され、共同店舗の「クラカケ会館」「サカエ会館」「問屋橋商店街」などが建設された。「クラカケ会館」は1952(昭和27)年に「鞍掛橋」跡の北側に建設された。写真は1957(昭和32)年撮影の「クラカケ会館」で、建物の前に「鞍掛橋」の親柱が残っている。【画像は1957(昭和32)年】

「クラカケ会館」はビルに建て替えられて、2010(平成22)年頃まで残っていたが、その後、マンションに建て替えられている。

「日本橋川」と首都高速道路 MAP __

高度経済成長期を迎えた東京では、増え続ける自動車の増加に対応するため、高速道路の建設が求められるようになった。用地買収が不要で、水運の利用も少なくなった運河の埋立てや水を抜いての掘割化、運河の上空の活用が検討されるようになり、「日本橋川」では、水を抜いて掘割として道路を建設する案が検討された。しかし、1958(昭和33)年に「狩野川台風」で東京も浸水被害を受け、「日本橋川」を排水路として確保するべきとの意見が強くなったことから、同年、「日本橋川」を残し、高速道路は高架化することが決定した。その後、建設が進められ、翌年に「東京オリンピック」を控えた1963(昭和38)年、首都高速道路の「日本橋川」上の区間が開通した。

写真は1963(昭和38)年に撮影された、「日本橋」上空の建設中の様子。【画像は1963(昭和38)年】

写真は現在の「日本橋」。2020(令和2)年に「首都高速道路 日本橋区間地下化事業」が認可され、現在は着工に向けての準備が行われている。



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