『最も有望なる電車』
【画像は1932(昭和7)年】
小林一三氏は1873(明治6)年、山梨県生まれ。「慶応義塾」(現「慶応義塾大学」)で学び、卒業後は「三井銀行」(現「三井住友銀行」)に勤務した。1907(明治40)年、34歳の一三氏は上司だった岩下清周氏に誘われ、証券会社設立のため会社を辞めて大阪に向かったが叶わず、「箕面有馬電気軌道」(現「阪急電鉄」)の専務取締役となった。
鉄道事業とともに沿線宅地開発を行った一三氏の施策はそれまでになかったもので、その後の私鉄沿線開発の模範となった。出資者を募る際には日本初の企業広報誌『最も有望なる電車』を発行し、事業展開を説明した。
小林一三氏
【画像は1944(昭和19)年】
電車の中吊り広告を最初に考えたのも一三氏といわれている。住宅販売においては、持ち家が一部の富裕層に限られていた時代に、「頭金2割を支払い、残りを10年間の月賦で払い込む」という住宅ローンの先駆けとなる住宅販売方法を使い、サラリーマン層などの多くの人たちが、マイホームを持つ機会を作り上げた。ほかにも、一三氏自らも脚本を書いた「宝塚少女歌劇団」(現「宝塚歌劇」)の創立、鉄道会社直営としては世界でも初めての百貨店、「阪急百貨店」(現「阪急うめだ本店」)の開業など、数々の成功を収め、1957(昭和32)年に84歳で没した。
2010(平成22)年には池田市建石町に「小林一三記念館」がオープンした。この記念館の建物は一三氏の邸宅「雅俗山荘」だったもので、書斎などを公開し、その軌跡をたどる展示とともに茶室、庭園、邸宅レストランをもつ記念館に生まれ変わっている。