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観光開発を進めた「箕面有馬電気軌道」

現在の「阪急電鉄」の前身である「箕面有馬電気軌道」は1910(明治43)年、大阪から宝塚・箕面に至る新路線を開通させ、沿線開発にも取り組んだ。「箕面有馬電気軌道」の取締役で、アイデアマンとしても有名な小林一三氏は箕面に「箕面動物園」、宝塚には「宝塚新温泉」を開設した。他にも、豊中には野球大会が開催できる「豊中運動場」を建設するなど、観光開発により、沿線は大いに賑わった。


観光名所への玄関口「箕面公園駅」

大阪の中心部と箕面、有馬という近郊の観光地を結ぶ鉄道路線として計画された箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄宝塚本線・箕面線)。1910(明治43)年に現在の「梅田駅」から「宝塚駅」間と「石橋阪大前駅」から「箕面駅」間の同時開業を果たした。
MAP __(箕面駅)MAP __(石橋阪大前駅)

路線は「石橋駅」(現「石橋阪大前駅」)で宝塚方面と箕面方面に分岐し、箕面方面の終着駅となったのが写真の「箕面公園駅」(現「箕面駅」)。「箕面山」の一帯は紅葉の季節に賑わいを見せる観光地であり、遊覧鉄道としての価値が高かった。開業当時は乗車場と降車場を設けたラケット形のループ線を整備し、降車場で客を降ろし、そのままUターンして乗車場で客を乗せる形式だった。中央手前に見える2本の塔「金星塔」が「滝道」への入口で、その右が降車場、左上が乗車場となる。ループ線の内側は広場・運動場となっていた。その先の大きい建物は「箕面公会堂」で、1919(大正8)年に宝塚へ移築され「宝塚歌劇場」として使用されたが、1923(大正12)年に焼失した。「箕面公会堂」移築後の跡地は宅地として整備された。
MAP __(箕面公会堂跡地)【画像は明治後期】

現在の駅前ロータリーの外周はループ線がUターンしていた場所と概ね一致している。写真は現在の「箕面駅」で、降車場は写真右手付近、乗車場は写真外左手、「金星塔」は撮影地点の背後にあった。

国内最大規模の動物園「箕面動物園」

約3万坪の広さを誇る国内最大規模の動物園として、「箕面公園駅」(現「箕面駅」)の開業と同じ1910(明治43)年に誕生した「箕面動物園」。「一の橋」の西側の山林に、「箕面山」の地形を生かしながら動物の檻が配置され、観覧車や噴水、「翠香殿(すいこうでん)」などの施設を巡りながら季節の花なども楽しめる観光地だった。このあたりには、明治中期に関西財界人の倶楽部「松風閣」が建てられていた。

図は1911(明治44)年頃の園内図。前述の「松風閣」は「箕面動物園」の施設として取り込まれ、図の中央付近に記載されている。この「松風閣」の建物は現在も残り、「箕面観光ホテル」の別館「桂」となっている。「桂」の名は、内閣総理大臣も務めた桂太郎氏がよく訪れていたことに由来する。
MAP __(松風閣)【図は1911(明治44)年頃】

1913(大正2)年には、現在の兵庫県西宮市にあった「香櫨園(こうろえん)遊園地」が閉園し、そこから動物を引き取る形で動物の数も増えた。施設としては好評であったといわれるが、会社が「箕面公園」の自然保護へ方針を改めたほか、この地での動物の飼育・管理の難しさもあり、また経営的にも「宝塚新温泉」に集中することになり、開園からわずか5年あまり、1916(大正5)年に閉園となった。【画像は1911(明治44)年頃】

写真は「箕面動物園」内にあった観覧車。開園の翌年、1911(明治44)年に営業を開始した。設置場所は「松風閣」の少し東側であった。
MAP __【画像は明治後期~大正前期】

現在、「箕面動物園」の跡地は「箕面観光ホテル」「箕面温泉スパーガーデン」などになっている。「箕面温泉スパーガーデン」の展望エレベーターの乗り場付近では、「箕面動物園」の遺構である煉瓦アーチの檻が見られる。MAP __(箕面温泉スパーガーデン)MAP __(箕面動物園の遺構)

夏の全国高校野球大会、発祥の地「豊中運動場」 MAP __

「箕面有馬電気軌道」(現「阪急電鉄」)は乗客誘致のために沿線に様々な施設を建設した。1913(大正2)年5月、現在の豊中市に建設された「豊中運動場」もその一つ。建設と同年には「日米大学野球戦」「日本オリンピック大会」などの大きなイベントが開催された。1915(大正4)年には「第1回全国中等学校優勝野球大会」が開催され、その翌年の第2回大会も「豊中運動場」で開催された。これが現在「阪神甲子園球場」で行われている「全国高等学校野球選手権大会」に発展した。【画像は1913(大正2)年】

跡地はその後、住宅地となったが、1988(昭和63)年、その一角に当時の門柱や赤煉瓦壁が再現された「高校野球メモリアルパーク」が整備された。さらに「第100回全国高等学校野球選手権大会」を翌年に控えた2017(平成29)年、規模を拡大し「高校野球発祥の地記念公園」として再整備が行われた。実際にグラウンドがあった場所は写真左奥の住宅地一帯となる。

池田にあった芝居小屋「呉服座」

1874(明治7)年頃、池田・栄本町に開設された芝居小屋の「戎座」は、1892(明治25)年頃に「猪名川」沿いに新築移転となり、このころから「呉服座(くれはざ)」と呼ばれるようになったといわれる。ここでは歌舞伎、壮士芝居、新派などの芝居や落語、浪曲、漫才といった様々な興行が行われた。

写真は昭和初期の「呉服座」内部の様子。【画像は昭和初期】

「呉服座」は、映画やテレビの台頭などにより、1969(昭和44)年5月の興行を最後に閉館した。現在「呉服座」跡地は堤防となっており、堤防上に石碑が設置されている。
MAP __(呉服座跡地)

建物は閉館翌年に解体され、1971(昭和46)年に愛知県の「博物館明治村」へ移築、復元公開され1984(昭和59)年に国の重要文化財に指定された。写真は「博物館明治村」内の「呉服座」。
MAP __

2010(平成22)年、栄本町にあった「池田中央シネマ」を全面改装し、「呉服座」の建築様式を一部再現した大衆演劇場「池田呉服座(ごふくざ)」がオープンした。
MAP __(池田呉服座)


斬新な発想で成功を収めた小林一三氏 MAP __(小林一三記念館)

『最も有望なる電車』

『最も有望なる電車』
【画像は1932(昭和7)年】

小林一三氏は1873(明治6)年、山梨県生まれ。「慶応義塾」(現「慶応義塾大学」)で学び、卒業後は「三井銀行」(現「三井住友銀行」)に勤務した。1907(明治40)年、34歳の一三氏は上司だった岩下清周氏に誘われ、証券会社設立のため会社を辞めて大阪に向かったが叶わず、「箕面有馬電気軌道」(現「阪急電鉄」)の専務取締役となった。

鉄道事業とともに沿線宅地開発を行った一三氏の施策はそれまでになかったもので、その後の私鉄沿線開発の模範となった。出資者を募る際には日本初の企業広報誌『最も有望なる電車』を発行し、事業展開を説明した。


小林一三氏

小林一三氏
【画像は1944(昭和19)年】

電車の中吊り広告を最初に考えたのも一三氏といわれている。住宅販売においては、持ち家が一部の富裕層に限られていた時代に、「頭金2割を支払い、残りを10年間の月賦で払い込む」という住宅ローンの先駆けとなる住宅販売方法を使い、サラリーマン層などの多くの人たちが、マイホームを持つ機会を作り上げた。ほかにも、一三氏自らも脚本を書いた「宝塚少女歌劇団」(現「宝塚歌劇」)の創立、鉄道会社直営としては世界でも初めての百貨店、「阪急百貨店」(現「阪急うめだ本店」)の開業など、数々の成功を収め、1957(昭和32)年に84歳で没した。

2010(平成22)年には池田市建石町に「小林一三記念館」がオープンした。この記念館の建物は一三氏の邸宅「雅俗山荘」だったもので、書斎などを公開し、その軌跡をたどる展示とともに茶室、庭園、邸宅レストランをもつ記念館に生まれ変わっている。


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