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郊外住宅地開発と教育機関の設置

「箕面有馬電気軌道」(現「阪急電鉄」)は沿線各地の住宅開発にも力を入れ、開通と時期を同じくして「池田室町住宅地」「桜井住宅地」などを分譲販売した。また、箕面の住宅地開発を進めた岸本兼太郎は「箕面学園尋常小学校」も開設した。他にも、豊中や池田に旧制中学校・高等学校、師範学校などが誘致され、住宅と共に教育環境も整備された。


分譲住宅地の先駆け「池田室町住宅地」 MAP __

1910(明治43)年、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄宝塚本線・箕面線)の開通と合わせて小林一三が開発した「池田室町住宅地」。日本で初めて電鉄会社により開発された分譲型の「郊外住宅地」であり、大阪の都心から電車で20分ほどの「池田駅」の西側に誕生した。約270戸が月賦で販売され、ターゲットは中流層に置かれていた。購買部(購買組合)や社交場「室町倶楽部」が設けられ、公園や果樹園なども設置されて、模範的郊外生活が追求された。【画像は1914(大正3)年頃】

現在も、開発の初期に建てられた焼き板塀の和風住宅がそのまま残されている。

最先端の改造住宅が集まる「住宅改造博覧会」 MAP __

現在の箕面市桜ケ丘二丁目は1922(大正11)年に「住宅改造博覧会」が開催された場所。この「住宅改造博覧会」は、「日本建築協会」が主催したもので、コンペティションで入選した住宅を中心に、25棟が建設、展示された。博覧会は大盛況で、当初9月21日から11月20日までの60日間の予定であった会期が26日まで延長され、7万人以上の入場者を集めた。博覧会の終了後には展示住宅が土地付きで売り出された。【画像は1923(大正12)年頃】

当時の展示住宅の一部は現在も残っており、国の有形文化財に登録されている住宅もある。


沿線で進められた住宅地開発

1936(昭和11)年の豊中町全景

1936(昭和11)年の豊中町全景

小林一三は箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄宝塚本線・箕面線)を開業させる前、梅田・池田間の予定線を自分の足で歩き、その穏やかな風景を見て、住宅地としての価値を確信したという。

「箕面有馬電気軌道」(現「阪急電鉄」)が最初に手掛けた住宅地は、1910(明治43)年に開発した「池田室町住宅地」で、最初の100戸の住宅はほどなく完売したという。続く1911(明治44)年、箕面線の「桜井駅」前に「桜井住宅地」が開かれ、1戸1,200円の均一価格で販売された。ここには果樹園も開発され、各戸に果樹が植えられた他、1923(大正12)年には住民により「桜井幼稚園」(現「若葉幼稚園」)も開設された。これに続き、「豊中駅」前では「豊中住宅地」が開発、分譲された。
MAP __(桜井住宅地) MAP __(若葉幼稚園) MAP __(豊中住宅地)

他にも、1924(大正13)年から「関西土地株式会社」が「牧落駅」前で「百楽荘」の開発を手掛けた。この2年前には箕面で「住宅改造博覧会」が開催されており、近代的な住宅地の開発が次々と進められた。
MAP __(百楽荘)

宝塚本線沿線では「岡町駅」西側で1915(大正4)年から「岡町住宅地」の開発が「岡町住宅経営会社」によって進められた。その後は、「箕面有馬電気軌道」(現「阪急電鉄」)や住宅会社が競い合うように「清風荘」「蛍ヶ池経営地」「曽根経営地」「新屋敷」などの住宅地開発を行った。
MAP __(岡町住宅地)


旧制「大阪府立浪速高等学校」は戦後、「大阪大学」に発展 MAP __

1926(大正15)年、現在の豊中市待兼山町に位置する「府立大阪医科大学予科」を発展的に解消して旧制「大阪府立浪速高等学校」が発足した。戦後、旧制「大阪府立浪速高等学校」は廃止、1949(昭和24)年に新制「大阪大学」に包括され、「大阪大学 豊中キャンパス」となった。写真は1929(昭和4)年に竣工したネオゴシック様式の「浪速高等学校高等科本館」。【画像は1930(昭和5)年頃】

現在は「大阪大学会館」となり、国の有形文化財建造物に登録されている。

豊中村が誘致し、「大阪府立豊中中学校」を開校 MAP __

1921(大正10)年、大阪市内に建設予定だった「大阪府立第十三中学校」は建設地が決まらず、仮校舎として旧制「大阪府立生野中学校」(現「大阪府立生野高等学校」)で授業を行っていた。そこで、当時、沿線開発で発展期を迎えていた豊能郡豊中村(現・豊中市)が学校誘致に成功し、「大阪府立第十三中学校」は1922(大正11)年に豊中村に移転して「大阪府立豊中中学校」となった。【画像は1931(昭和6)年】

戦後に「大阪府立豊中高等学校」へ発展し、男子校から男女共学となった。


箕面の発展に貢献した岸本兼太郎

岸本兼太郎

岸本兼太郎【画像は1935(昭和10)年】

関西の船舶会社、「岸本汽船」の社長だった岸本兼太郎は、小林一三を援助した人物としても知られている。兼太郎は岸本家の財を築いた初代岸本五兵衛の二男で、1874(明治7)年生まれ。兄の二代目五兵衛の後を継いで、「岸本汽船」の社長となった。

兼太郎は一三が1910(明治43)年に「箕面動物園」を開園した時の出資者のひとりであり、箕面の発展に大いに貢献した。1920(大正9)年に「阪神急行電鉄」(現「阪急電鉄」)が神戸線を開業した際にも300万円を出資して援助しているように、一三との結びつきはその後も続いていた。

1920(大正9)年頃から、兼太郎が経営主である「箕面土地株式会社」は現在の市道才ヶ原線桜並木周辺で住宅地の造成を行い、兼太郎自身も現在の箕面三丁目に自らの邸宅を設けた。兼太郎はこの住宅地を「自然の学校村」と定め、地域への貢献ができる教育機関の誘致にも力を入れた。
MAP __(自然の学校村)


現在の箕面三丁目付近

現在の箕面三丁目付近

1924(大正13)年には、箕面の自然の中で幼児保育を行う「箕面家なき幼稚園」を誘致・開園している。この幼稚園は1930(昭和5)年に「箕面自然幼稚園」と改称したが、園児たちは兼太郎の邸宅に行って遊ぶなど、地域との交流が行われていた。

1926(大正15)年、兼太郎は「箕面学園尋常小学校」を設立した。英語教育など、当時としては斬新な教育を実践した後、戦後に豊中市へ移転して「箕面自由学園」となり、幼稚園から高等学校までの一貫教育を行っている。現在、「箕面学園尋常小学校」の跡地には、「箕面市立北小学校」がある。
MAP __(箕面自由学園)MAP __(箕面市立北小学校)


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