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『宝塚新温泉御案内図』 園内の娯楽施設

1911(明治44)年、「武庫川」の左岸に開設された「宝塚新温泉」は当初、大理石造りの大浴場を中心とした家族的娯楽場であり、その後に「パラダイス」「大劇場」などの娯楽施設を充実させていった。『宝塚新温泉御案内図』は1929(昭和4)年、道路を隔てた北側に、「動物園」「飛行塔」「プール」などがある外園の「ルナパーク」を増設した時期のものとなる。


「宝塚新温泉」は、1924(大正13)年に完成した「大劇場」を中心に「パラダイス(屋内遊戯室・展望台)」「和・洋食堂」などを備える総合的な遊園地となり、1929(昭和4)年には「桜トンネル道」(現「花のみち」)を隔てた外園の「ルナパーク」が加わり、規模を拡大していった。この図は、その頃に「阪急電鉄」が発行した『宝塚新温泉御案内図』。下(南)側には「宝塚少女歌劇」が上演される「大劇場」「パラダイス」とともに「中劇場」や「武庫川」に面した「納涼台」があった。地図の上(北)には、外園の「猛獣舎」「飛行塔」「プール」などがある「ルナパーク」、右上(北東)側には「植物園」「大池」の中にはボートが見える。この当時、「宝塚音楽歌劇学校」の校舎は「大劇場」の東側(図中央下)と、「植物園」の北側(図右上)の二か所にあったことも読み取れる。また、「大劇場」の右(東)の道が、阪急今津線「宝塚南口停留所(駅)」などへ向かうことを示しており、この時期には橋(「迎宝橋」)が架かっていたことがわかる。【図は昭和戦前期】

「宝塚新温泉」の全景。手前が「武庫川」で中央右側に「大劇場」、中央左手には50mプールも見える。【画像は昭和戦前期】

現在の様子。「武庫川」右岸から「宝塚バウホール」(手前)「宝塚大劇場」(奥)を望む。

1914(大正3)年に「宝塚少女歌劇」の最初の演目が行われ、間もなく定期的な公演となる。公演は、2つの劇場で開催されていたが、火災で焼失。1924(大正13)年に観客4,000人を収容できる「宝塚大劇場」が竣工した。【画像は昭和戦前期】 MAP __

「宝塚少女歌劇」が上演される「大劇場」に隣接して建てられた洋館1階の大広間。たくさんの来場者とともに、右手には「本日大劇場座席券売切」の垂れ幕、左手には洋食堂の看板が見え、奥は「中劇場」と結ばれていた。【画像は昭和戦前期】 MAP __

1913(大正2)年に組織された「宝塚唱歌隊」は、「宝塚少女歌劇養成会」と改称。1918(大正7)年、現在の「宝塚音楽学校」の前身である「宝塚音楽歌劇学校」が設立された。1919(大正8)年には生徒・卒業生で「宝塚少女歌劇団」が組織された。この写真は図右上に描かれている校舎。現在、校舎の一部が「宝塚文化創造館」として残されている。【画像は昭和戦前期】 MAP __

「大劇場」「パラダイス」「納涼台」などがある「武庫川」沿いの南側と、「動物園」「飛行塔」「プール」などがある北側の外園「ルナパーク」を結んでいた陸橋。現在「阪急宝塚ハウジングガーデン」と「大劇場」をつなぐ陸橋があるが、それより50mほど西側に架けられていた。【画像は昭和戦前期】 MAP __

外園の「ルナパーク」の中央部には「猛獣舎」などが置かれ、「動物曲芸場」で芸を見せる象が描かれている。写真は曲芸を披露する象と猿。奥に観客の姿が見える。この付近は現在の「阪急宝塚ハウジングガーデン」にあたる。【画像は昭和戦前期】 MAP __

外園には、子どもたちのための遊具も充実していた。手前にはミニカー(電気自動車)で遊ぶ親子が見える。後ろに見える「飛行塔」は、この時代の遊園地の人気の遊具だった。現在、「飛行塔」があった付近は大型商業施設となっている。【画像は昭和戦前期】 MAP __


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