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「阪神電鉄」沿線の観光開発

風光明媚な西宮周辺では、1905(明治38)年に「阪神電鉄」が開通すると大阪・神戸からアクセス性が向上し沿線の観光開発が加速。開通から2年ほどの間に「鳴尾百花園」「関西競馬場」「鳴尾速歩競馬場」「香櫨園」「香櫨園海水浴場」などが誕生。すぐに衰退してしまった施設もあったが、その後の高級住宅地の開発や「甲子園球場」の開設、工業的な発展へつながる礎となっている。


地元の名士・辰馬半右衛門氏が開いた「鳴尾百花園」 MAP __

「鳴尾百花園」は、1905(明治38)年、鳴尾辰馬家十五代当主の辰馬半右衛門氏が造った庭園。辰馬半右衛門氏は酒造家・実業家でもあり、大正期~昭和初期には鳴尾村の村長も務めた地元の名士であった。「鳴尾百花園」は「阪神電鉄」開通に合わせて開園したもので、席亭や築山、池などが設けられ、四季の草花の鑑賞、散策、小舟からの眺望などを楽しむことができた。その後、いちご狩りの休憩所や隣接する「武庫川遊園」の施設として利用されたのち、1931(昭和6)年に「阪神電鉄」に売却され、大阪などの学童が夏季に利用する林間学校「武庫川学園」となった。1939(昭和14)年から1年間は、新規開校した「武庫川高等女学校」(現「武庫川女子大学附属中学校・高等学校」)が仮校舎として使用した。【画像は明治後期】

戦時中の1943(昭和18)年、軍需工場の「川西航空機 鳴尾製作所」への従業員と資材輸送のため、阪神武庫川線が建設され、「武庫川学園」の敷地の一部はその用地となった。「武庫川学園」の跡地は、1950年代前後に住宅地となっている。現在も「鳴尾百花園」「武庫川学園」と「武庫川遊園」を結んでいたと思われる道(階段)が残っている。写真の階段と阪神武庫川線の踏切の先が「鳴尾百花園」「武庫川学園」の跡地となる。
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鳴尾は「武庫川」と「枝川」により形成された三角州上の地域。砂地であるため古くから松の景勝地として知られ、江戸時代以降はスイカや綿花が栽培されていた。いちごの栽培は1904(明治37)年に始まり、大正期頃から鳴尾村全村で栽培されるように。新種の導入や品種改良も行われ「鳴尾いちご」として名産品となり、イチゴジャムの生産でも知られるようになった。「阪神電鉄」と協力して、いちご狩りの宣伝や誘客を行ったことで、昭和初期に「鳴尾いちご」は全盛期を迎え、この頃の作付面積は鳴尾村の全耕地の約半分を占めるまでになった。写真は昭和初期の鳴尾でのいちご狩りの様子。しかし、1934(昭和9)年の「室戸台風」で浸水による塩害の被害に遭い、その後、戦時体制下に入ると軍需工場の進出などで耕地が買収され、戦中には主食を生産するため「鳴尾いちご」の栽培は減少。戦後になると一帯で住宅地化が進み、いちご栽培は衰退した。現在では唯一「鳴尾いちご」の栽培を続けている「中島農園」と、地元の学校や企業などが連携して「鳴尾いちご」復活への取り組みが行われている。
MAP __(中島農園)【画像は1936(昭和11)年頃】

1907(明治40)年に誕生した「鳴尾競馬場」

1907(明治40)年、「鳴尾浜」の「鳴尾川」西側に「関西競馬倶楽部」による「関西競馬場」(通称「鳴尾競馬場」)が開場した。翌1908(明治41)年には「鳴尾川」の対岸・東側に「繋駕速歩」を専門に行う「鳴尾速歩(はやあし)競馬会」による「鳴尾速歩競馬場」も開かれた。「繋駕」とは馬に騎手が乗る二輪の馬車を繋いだもので、「速歩」は馬の肢のどれかが地面に着いている歩法のこと。当時、政府は軍馬の改良・育成を促進するため馬券を黙許したことで、鳴尾村の2つをはじめ、全国に競馬場が相次いで誕生したが、各地で風紀を乱して問題となったため、同年に急遽、馬券発売は禁止され、以降、競馬団体は統合の上、補助金により開催されるようになった。鳴尾村の2つの競馬団体も1910(明治43)年に統合され「阪神競馬倶楽部」となり、競馬場は西側の「鳴尾競馬場」の方が存続となった。

補助金以外の収入がなくなった「阪神競馬倶楽部」は、競馬の開催期間以外にも集客を行うようになった。特に明治後期から大正前期にかけて、当時最先端の技術であった飛行機の飛行大会(航空ショー)が何度も行われ、毎回多くの観客を集めた。1916(大正5)年には「阪神電鉄」に貸し出され「鳴尾競馬場」内に2面のグラウンドを持つ野球場などを含む総合運動場が造られ、翌年から「全国中等学校優勝野球大会」(現「全国高校野球選手権大会」)の会場となった。その後、1937(昭和12)年に「阪神競馬倶楽部」が「日本競馬会」に統合されると「鳴尾競馬場」は「阪神競馬場」へ改称された。戦時中の1943(昭和18)年、海軍に接収され「鳴尾飛行場」となり、近くに誕生していた「川西航空機 鳴尾製作所」が製造する軍用機の試験・開発にも利用された。「阪神競馬場」は代替地として、逆瀬川(現・宝塚市)の「宝塚ゴルフ倶楽部」一帯へ移転が決まり厩舎などの建設が進められたが、戦後、その代替地も進駐軍に接収されたため、改めて現在地となる仁川(現・宝塚市)に競馬場を建設、1949(昭和24)年に開場となった。
MAP __(逆瀬川の阪神競馬場予定地跡地)MAP __(現在の阪神競馬場)

写真は明治後期の「関西競馬場」(通称「鳴尾競馬場」)。中央奥のスタンドが現在の「武庫川女子大学附属中学校・高等学校 芸術館」付近となる。
MAP __【画像は明治後期】

「鳴尾競馬場」の跡地の一部は現在「武庫川女子大学」と「武庫川女子大学附属中学校・高等学校」のキャンパスとなっている。写真は競馬場の本館(1935(昭和10)年竣工)だった建物で、戦時中は「鳴尾飛行場」の管制塔として使用されていた。現在は附属中学校・高等学校の「芸術館」となっている。

1910(明治43)年の統合で廃止となった「鳴尾速歩競馬場」の跡地は「鈴木商店」に売却され、その後、土地がイギリス人貿易商・W.J.ロビンソン氏へ無償で貸し出され1914(大正3)年にゴルフ場「鳴尾ゴルフ・アソシエーション」が開設されたが経営難となり、1920(大正9)年に阪神間の実業家が設立した「鳴尾ゴルフ倶楽部」へ引き継がれた。しかし、地主であった「鈴木商店」の経営破綻から担保だった土地は1929(昭和4)年に「川西航空機」の所有となり、本社・工場の建設とともに「鳴尾ゴルフ倶楽部」のコースは縮小となったため、1930(昭和5)年に現在の川西市に新コースを開設。戦時体制下に入った1939(昭和14)年、「川西航空機」の工場拡張のため、鳴尾のコースは閉鎖された。

戦後は「川西航空機」の後身の一つ「旭工業」(軽オート三輪の「ミゼット」の開発でも知られる)、「鈴木商店」の流れを汲む「豊年製油」などの工場地帯となった。その後、工場の移転とともに大規模団地の開発が計画され、1976(昭和51)年、「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)による「武庫川団地」が着工、1979(昭和54)年に入居が始まり、1990(平成2)年に完成した。賃貸・分譲・公営住宅を合わせると約9000戸となり、「UR都市機構」の団地の中では西日本で最大、全国でも4番目の住戸数を誇る。写真は現在の「武庫川団地」。
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「香櫨園」は遊園地から高級住宅地へ MAP __

1907(明治40)年、「夙川」の西岸に香野蔵治(こうのくらじ)氏、櫨山(はぜやま)喜一氏(ともに大阪の砂糖商)が「香櫨園(こうろえん)遊園地」を開設した。「香櫨園」の名称は、この二人の姓から採られた。「阪神電鉄」も経営に参画し、遊園地開設に合わせて「香櫨園駅」を開業した。当時、関西最大の遊園地で、広大な敷地に博物館・動物園・音楽堂・運動場・ホテル・温泉などが設けられた。1910(明治43)年、ここの運動場で関西初の日米野球「早稲田大学・シカゴ大学戦」が行われ、興業的に大成功となったことが、のちに「阪神電鉄」が野球に関わるきっかけとなった。

写真は大正初期の「香櫨園遊園地」。「内殿池」(現「片鉾池」)にはウォーターシュート(写真左)も設置されていた。遊園地は次第に賑わいを失い、1913(大正2)年、経営が神戸の「サミュエル商会」(イギリスの総合商社の日本法人)に引き継がれたため、「阪神電鉄」は遊園地の経営から撤退、博物館・音楽堂などの施設は「香櫨園海水浴場」(現「御前浜公園」)へ移設され、「香櫨園遊園地」は同年9月に閉園となった。動物園の動物は「箕面動物園」に引き取られた。その後、「サミュエル商会」は外国人向けの宅地開発を目論んだが実現せず、1917(大正6)年、大阪の実業家らが出資・設立する新会社「大神中央土地」へ譲渡されることになり、「夙川香櫨園経営地」として宅地開発が行われた。
MAP __(御前浜公園)【画像は大正初期】

「夙川香櫨園経営地」の中心となる「夙川駅」は、1920(大正9)年の阪急神戸本線の開通と同時に開業した。現在「香櫨園遊園地」跡地を含む一帯は西宮市の地区名「香櫨園地区」と呼ばれており、『西宮七園』と呼ばれる高級住宅地の一つとして知られる。写真は現在の「片鉾池」。池の上に見える建物は松下幸之助氏が1963(昭和38)年に西宮市へ寄贈した「夙川公民館」で内部のホールは「松下記念ホール」と命名されている。

廃川の上にできた阪神本線「甲子園駅」 MAP __

阪神本線が開業した明治後期には、現在の「甲子園」付近に駅は設置されておらず、この地を流れる「枝川」の橋梁を渡るのみであった。1920(大正9)年、兵庫県による「武庫川」の改修工事(第一期)が始まり、「武庫川」の支流である「枝川」、「申川」を廃川することになった。写真は廃川前の「枝川」を渡る阪神本線。【画像は明治後期】

「阪神電鉄」は、この2本の廃川により埋め立てられた土地を取得し、1924(大正13)年、「枝川」と「申川」の三角州の頂点にあたる場所に「阪神甲子園球場」を開場。このとき「甲子園駅」(写真奥)が臨時駅として開設され、プラットホームは旧「枝川」の鉄橋上に設置された。さらに、1926(大正15)年には、「枝川」の流路を利用して「甲子園筋」が整備され、ここに軌道線(路面電車)の阪神甲子園線が開通した。翌年には阪神国道線に乗り入れるようになり、地元住民や「甲子園球場」の観客などが利用したが、1975(昭和50)年、阪神国道線とともに廃止された。【画像は昭和戦前期】

現在の阪神本線「甲子園駅」を望む。周辺には大型の商業施設などもでき、多くの人で賑わっている。


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