1934(昭和9)年頃、陸軍により撮影された現在の千種区北西部一帯(当時は東区)の航空写真(正確な撮影年は不明)。ここでは、この写真内の主な工場とその周辺を紹介する。
純農村地帯であった現在の名古屋市千種区西部に1900(明治33)年、中央線が通ると、その利便性と広大な土地から、陶磁器・織物など多くの工場や陸軍の兵器支廠・工廠が置かれ、工場の街となった。一帯は「名古屋大空襲」で大きな被害を受けたが、戦後、跡地に住宅・学校・公園などが建設され、現在では住宅・文教エリアとなっている。
純農村地帯であった現在の名古屋市千種区西部に1900(明治33)年、中央線が通ると、その利便性と広大な土地から、陶磁器・織物など多くの工場や陸軍の兵器支廠・工廠が置かれ、工場の街となった。一帯は「名古屋大空襲」で大きな被害を受けたが、戦後、跡地に住宅・学校・公園などが建設され、現在では住宅・文教エリアとなっている。
略史は下記コラムを参照。跡地は「名古屋経済大学市邨中学校・高等学校」「愛知県立名古屋盲学校」などになっている。
略史は下記コラムを参照。跡地は「千種公園」「名古屋市立東部医療センター」などに。公園内に爆撃で傷ついたコンクリート壁が移設されている。
略史は下記コラムを参照。1947(昭和22)年、跡地に木造平家建ての国鉄職員宿舎が建設された。2005(平成17)年、「JR東海」が社宅(旧国鉄職員宿舎)跡地の再開発を発表、2007(平成19)年にマンションと商業施設からなる「ナゴヤ セントラルガーデン」が誕生した。
1906(明治39)年、兵器支廠建設に際し、建設用煉瓦の製造のため「中京煉瓦工場」がこの地に創業。1914(大正3)年から耐火煉瓦を生産するようになり、1936(昭和11)年に「中京耐火煉瓦」となった。写真は1938(昭和13)年頃の様子。工場と道路を横断する線路は中央線から「名古屋陸軍兵器支廠」へ延びる引込線。
この会社が作った耐火煉瓦は「揚輝荘 聴松閣」の暖炉にも使用されている。引込線の一部は、戦後も1958(昭和33)年まで「中京耐火煉瓦」の工場が使用していた。現在、工場の跡地は「中京レンガビル」、UR「都通団地」などになっている。
古井周辺は清泉が湧き出る地として知られた。1925(大正14)年、中央線沿いで輸送も便利な場所に「大日本麦酒 名古屋工場」が完成し醸造を開始。ここでは「アサヒビール」ブランドの製品が製造された。1931(昭和6)年には、工場内に直営ビヤホール「浩養園」も開業した。
1900(明治33)年に中央線の名古屋~多治見間が開通すると、純農村地帯であった千種町(現在の名古屋市千種区西部)にも工場が立地するようになった。工員が10人以上の工場は、1908(明治41)年の時点で町内に11か所(うち鉄道開通前の設立はわずか1か所)であったが、1920(大正9)年には37か所まで増加している。この当時、1,592人と町内で最大の工員数を誇ったのが「愛知織物 千種工場」、次いで659人の「名古屋製陶所 弦月工場」となっており、他社も含め、織物・製陶が工業の中心となっていた(ただしこの統計に「名古屋機器製造所」は記載されていない)。
「名古屋陸軍兵器支廠」では1906(明治39)年から移転のための用地買収・建設が進められているが、この年には中央線から引込線で結ばれており、建設にも使用されたと考えられる。移転は1908(明治41)年。「第三師団」の兵器・弾薬類や材料の購買・貯蔵・補修を行う機関で、1940(昭和15)年に「名古屋陸軍兵器補給廠」となった。
当時の新兵器であった飛行機のエンジンを製造するため、1919(大正8)年に「東京陸軍砲兵工廠 名古屋機器製造所」が開設され、1923(大正12)年に「陸軍造兵廠名古屋工廠 千種機器製造所」となった。1940(昭和15)年、エンジンの製造は東京の立川に移され「名古屋陸軍造兵廠 千種製造所」へ改称、機関砲や軽機関銃などを製造した。
「丸繊」の名でも知られた「愛知織物」は、1890(明治23)年、瀧財閥の四代目・瀧兵右衛門氏が現在の東区代官町に設立。市内でも有数の大工場となり、1917(大正6)年に現在の千種区高見に新工場を建設、移転してきた。1939(昭和14)年、会社合併により「呉羽紡績」の「千種工場」となり、戦時中の1942(昭和17)年、「名古屋陸軍造兵廠 千種製造所」の工場に転用された。
この地域は軍需工場が多かったこともあり、「太平洋戦争」末期の「名古屋大空襲」で被災した地域もあった。戦後、これらの施設・工場の跡地に学校・公園・住宅などが建設され、千種区の新たな発展を支えた。