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名古屋の拡大と周縁部の開発

名古屋の市域の拡大や都市が発展する大正期以降、水道の拡張工事も行われた。また、当時の名古屋の新市域の多くの場所で土地区画整理も行われ、新たな住宅地が開発された。特に東部の「田代土地区画整理」は、市内最大の規模で行われ、現在につながる計画的な街づくりが行われた。この頃の「田代土地区画整理」の区域内・周辺には「昭和塾堂」「東山配水塔」「東山動物園」など、特徴的な施設も多く誕生した。


戦前期に市内最大の規模で行われた「田代土地区画整理」

田代の土地区画整理は1926(昭和元)年頃から県市当局の勧めで地元有志が計画、1929(昭和4)年に「田代土地区画整理組合」が設立された。当初の組合長は伊藤祐民氏、副組合長(のちに組合長)は水野鐘三氏。工事は1933(昭和8)年に着手された。面積は約416haで戦前期の土地区画整理として市内最大(旧・田代村の大部分、現・千種区域の1/5以上を占める)。図は1937(昭和12)年に組合が作成した鳥瞰図。【図は1937(昭和12)年】

戦前の「名古屋都市計画」の基礎を築いた都市計画家・石川栄耀(ひであき)氏が企画・実施を担当。放射環状型の街路網が取り入れられるなど、理想の郊外住宅地が追求された。自然豊かで地形の変化に富み、高級住宅のほか、一般の住宅にも適していた。組合は市に3万坪の土地の寄付も行っており、「東山公園」の整備及び市電延伸のための道路拡幅の費用に充てられた。地図は1937(昭和12)年の作成で、この年に動物園・植物園が開園市電東山公園線が開通している。戦後の1947(昭和22)年に事業が完了し組合は解散した。【図は1937(昭和12)年】

戦前期の社会教育施設「昭和塾堂」 MAP __

「愛知県議会」において、1926(大正15)年、青年団の「教化殿堂」(社会教育施設)建設の予算が可決。その後、昭和改元の記念事業として「昭和塾堂」が建設されることとなった。建設地は「八幡社」(現「城山八幡宮」)から境内の一部(かつて「末森城」の「二の丸」があった場所)を借り受けることとなった。「田代土地区画整理」を設計した石川栄耀氏が県知事にここの高台に造るように推薦、また「田代土地区画整理組合」が3万坪の用地提供により誘致を行ったともいわれている。建物は1928(昭和3)年に完成、男女青年団の幹部や指導者の養成などが行われた。【画像は昭和戦前期】

戦時中は「陸軍」に接収され「東海軍司令部」などに、戦後は「千種区役所」の仮庁舎、「愛知学院大学」の大学院研究室などに利用され、現在は「城山八幡宮」が管理している。写真は現在の様子。「旧昭和塾堂」は、昭和初期に国内各地に建てられた公立の社会教育施設としては唯一現存するもので、2005(平成17)年に「愛知県教育委員会」が編集した『愛知県の近代化遺産』に登載されるなど、文化的価値も高く評価されている。

大正期に創設された名古屋市の水道

名古屋市の水道は1914(大正3)年に創設工事の主要部分が完成。「木曽川」の水を犬山で取水し「鍋屋上野浄水場」へ送水、浄水後、ポンプで「東山配水池」まで送り、市内に給水した。写真は創設当時の「鍋屋上野浄水場第一ポンプ所」。
MAP __【画像は1914(大正3)年】

写真は現在の「鍋屋上野浄水場旧第一ポンプ所」。1992(平成4)年までポンプ所として使用されていた。2012(平成24)年に名古屋市指定有形文化財となっている。

名古屋市の給水人口の急増を受け1925(大正14)年度から1929(昭和4)年度にかけて「第3期拡張事業」が行われ、この中で「東山配水塔」が1930(昭和5)年に完成した。写真は完成当初の「東山配水塔」。
MAP __【画像は1930(昭和5)年】

「東山配水塔」は1973(昭和48)年に役割を終えたが、その後、応急給水施設へ改造され、1979(昭和54)年に「東山給水塔」となった。1983(昭和58)年には、腰折の多角形屋根と眺望スペース(現在場内工事のため非公開)を設置する改修が行われた。写真は現在の様子。

「振甫プール」の誕生 MAP __

1932(昭和7)年、名古屋市は市民の体力の向上と健康増進のため、水道の付帯事業として市営プールの設置を決め、江戸末期に作られた「振甫池」(振甫の地名の由来はこちらを参照)の場所に、翌1933(昭和8)年に名古屋市最初の市営プールとして「振甫プール」(当時の表記は「振甫游泳場」)が誕生した。飛込プール、50mプール、25mプール、観覧席、ナイター設備などが設けられていた。前畑秀子氏の女子200m平泳ぎの世界記録もこのプールで生まれている。写真は北から南の撮影。奥に見える山は「覺王山」のある丘陵。【画像は1937(昭和12)年頃】

戦時中に利用は休止されたが、戦後は1947(昭和22)年に再開。1950(昭和25)年に名古屋市で行われた「第五回国民体育大会」の会場となり、このとき大幅な改修が行われている。写真は昭和20~30年代の飛込プールの様子。1964(昭和39)年に管理運営は教育委員会に移管された。【画像は昭和20~30年代】

1972(昭和47)年に一旦閉鎖、敷地は縮小され、1974(昭和49)年から近隣住民のためのプールとなり、残りの敷地は「千種社会教育センター」(1975(昭和50)年開館・現「千種生涯教育センター」)などになった。「振甫プール」は2009(平成21)年に閉鎖となり、2012(平成24)年、跡地へ「名古屋市上下水道局千種営業所」(写真左奥の建物)が移転。閉鎖の翌年の2010(平成22)年には、かつて「振甫プール」で活躍した水泳選手、古橋廣之進氏による『泳心一路』の碑(写真右手前)が建立された。


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