1900(明治33)年に中央線の名古屋~多治見間が開通すると、純農村地帯であった千種町(現在の名古屋市千種区西部)にも工場が立地するようになった。工員が10人以上の工場は、1908(明治41)年の時点で町内に11か所(うち鉄道開通前の設立はわずか1か所)であったが、1920(大正9)年には37か所まで増加している。この当時、1,592人と町内で最大の工員数を誇ったのが「愛知織物 千種工場」、次いで659人の「名古屋製陶所 弦月工場」となっており、他社も含め、織物・製陶が工業の中心となっていた(ただしこの統計に「名古屋機器製造所」は記載されていない)。
「名古屋陸軍兵器支廠」では1906(明治39)年から移転のための用地買収・建設が進められているが、この年には中央線から引込線で結ばれており、建設にも使用されたと考えられる。移転は1908(明治41)年。「第三師団」の兵器・弾薬類や材料の購買・貯蔵・補修を行う機関で、1940(昭和15)年に「名古屋陸軍兵器補給廠」となった。
今池周辺の戦災概況図。赤い線で囲まれている区域が1945(昭和20)年の空襲で被災した。
【図は1945(昭和20)年】
当時の新兵器であった飛行機のエンジンを製造するため、1919(大正8)年に「東京陸軍砲兵工廠 名古屋機器製造所」が開設され、1923(大正12)年に「陸軍造兵廠名古屋工廠 千種機器製造所」となった。1940(昭和15)年、エンジンの製造は東京の立川に移され「名古屋陸軍造兵廠 千種製造所」へ改称、機関砲や軽機関銃などを製造した。
「丸繊」の名でも知られた「愛知織物」は、1890(明治23)年、瀧財閥の四代目・瀧兵右衛門氏が現在の東区代官町に設立。市内でも有数の大工場となり、1917(大正6)年に現在の千種区高見に新工場を建設、移転してきた。1939(昭和14)年、会社合併により「呉羽紡績」の「千種工場」となり、戦時中の1942(昭和17)年、「名古屋陸軍造兵廠 千種製造所」の工場に転用された。
この地域は軍需工場が多かったこともあり、「太平洋戦争」末期の「名古屋大空襲」で被災した地域もあった。戦後、これらの施設・工場の跡地に学校・公園・住宅などが建設され、千種区の新たな発展を支えた。