「向島(向嶋)」とは、江戸期からの繁華街・浅草から見て、「隅田川」の向こう側にある地のこと。江戸期より、風光明媚な郊外の行楽地として栄え、特に、江戸有数の桜の名所としても賑わった。
「向島」には江戸期より料理屋もあり、当時の遊興客は、吉原など浅草側の芸妓と一緒に渡し舟で訪れたという。明治に入ると、見番が置かれるようになり花街として発展。1940(昭和15)年には芸妓約1,300名と最盛期を迎えるが、戦時中の「東京大空襲」で大きな被害を受けた。戦後、「向島」の花街は復興を遂げるが、その後、社会情勢の変化から衰退。組合は1986(昭和61)年に再編され「向嶋墨堤組合」となった。2016(平成28)年現在、都内最大、全国でも最大規模となる芸妓90名を抱えており、花街の伝統・文化を継承している。
昭和中期の「新玉の井」。
【画像は昭和中期】
「玉の井」は、古くは田園地帯であったが、大正中期頃に、浅草の銘酒屋(私娼がいる店)が数軒移転してきたことで繁華街としての歴史が始まり、「関東大震災」後は、その動きが加速し発展した。多くの文士も訪れた街で、永井荷風の小説『濹東綺譚』などの作品の舞台としても知られる。もともと畦道であったことから、雨が降るとぬかるむ、迷路のような路地で、各所に「ぬけられます」「ちかみち」などと書かれた看板があり、荷風は「ラビラント(迷宮)」と表現した。「玉の井」は、戦時中の「東京大空襲」で焼失した。
終戦後、「玉の井」の業者は、焼け残った北側の地域(「新玉の井」とも呼ばれる)に移り営業を続け、「赤線」として発展した。「新玉の井」は、滝田ゆう氏の漫画『寺島町奇譚』の舞台としても知られる。
MAP __(玉の井いろは通り商店街)
昭和中期の「鳩の街」。
【画像は昭和中期】
また、「玉の井」の一部業者は、「東京大空襲」後・終戦前に「寺島商栄会」(1928(昭和3)年から続く商店街)付近に移転、開業した。終戦直後、進駐軍のための慰安施設「RAA」とされた(この時から「鳩の街」と呼ばれるようになったという)のち、「赤線」として発展した。
「新玉の井」「鳩の街」とも、1958(昭和33)年の「売春防止法」施行により色街としての歴史を終えた。現在は落ち着いた住宅地などになっているほか、「鳩の街」はレトロな商店街としても人気がある。
MAP __(鳩の街通り商店街)