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江戸期に始まる深川の賑わい

門前仲町は、江戸期に「富岡八幡宮」「永代寺」の門前町から発展した。特に、「富岡八幡宮」の祭礼「八幡祭」や、「永代寺」で行われた「成田山」の出開帳、その他各寺社の開帳は、多くの江戸の町民で賑わった。また、江戸初期に開発が進められていた深川には、寺院も創建されたほか、さらに1657(明暦3)年の「明暦の大火」以降、「霊巌寺」など、江戸中心部から格式の高い寺院の移転もあり、「深川寺町」が形成された。


「富岡八幡宮」と「八幡祭」 MAP __

「富岡八幡宮」と別当寺(神社を管理する寺院)の「永代寺」は、江戸初期の1627(寛永4)年、菅原道真の末裔といわれる長盛法印が神託を受け、当時「永代島」と呼ばれた小島に八幡神を祀ったことに始まるといわれる。その後、周辺が埋め立てられ社有地が広がり、門前町が形成され、商業地としても発展した。図は江戸末期の1867(慶応3)年頃に歌川広重が描いた『東都深川富ケ岡八幡宮境内全図』。「富岡」は現在、「とみおか」と読むが、図のタイトルから、江戸期には「とみがおか」と読まれていたことがわかる。【図は江戸末期】

写真は明治後期の「富岡八幡宮」の「二の鳥居」。かつては掘割で囲まれており、手前には橋が見える。「一の鳥居」は現在の門前仲町一丁目付近にあった。【画像は明治後期】

写真は現在の「富岡八幡宮」。創建以来、江戸・東京で最大の八幡として、広く崇敬を集めている。現在の社殿は1956(昭和31)年に造営されている。

「富岡八幡宮」の祭礼は1642(寛永19)年、三代将軍・徳川家光が長男・家綱の誕生を祝賀したことに始まり、翌年から神輿の渡御も始まったという。かつては、一般に「八幡祭」と呼ばれた。写真は1921(大正10)年の「八幡祭」の様子。【画像は1921(大正10)年】

現在は、「深川八幡祭り」として、毎年8月(本祭りは3年に1度)に行われる。「水かけ祭り」とも呼ばれ、担ぎ手に清めの水が浴びせられる。「江戸三大祭り」の一つにも数えられている。


深川と「成田山」の関係

1885(明治18)年の出開帳

図は1885(明治18)年の「成田山」の出開帳の様子。明治に入っても人気であったことがわかる。【図は1885(明治18)年】

「成田山新勝寺」(以下「成田山」)は、平安中期、「平将門の乱」において、朱雀天皇が調伏祈願を命じ、平定となったことから創建された古刹。本尊は空海作といわれる不動明王像で、戦国時代の1566(永禄9)年に成田の現在地へ遷座した。江戸前期になり、初代・市川團十郎が「成田山」に子宝祈願をしたところ、すぐに二代目・團十郎を授かったことから、1695(元禄8)年に「山村座」で『成田不動明王山』を上演すると大成功となり、「成田屋」の屋号を名乗るようになった。

これにより「成田山」の名は江戸中に知れ渡ることに。こうした人気に支えられ、「成田山」は、1703(元禄16)年以降、度々、江戸・深川の「永代寺」(「富岡八幡宮」の別当寺)境内へ不動明王像を運び出開帳を行い、多くの参拝客を集めるようになった。また、江戸後期にかけては「成田山詣」も流行し、「小名木川」の「行徳船」は参拝ルートの一つとなった。

明治後期の「深川不動堂」

「深川不動堂」の門。【画像は明治後期】

明治期になると、深川の「永代寺」は、廃仏毀釈により廃寺になり、旧境内は「深川公園」となった。「成田山」の信徒らは深川への永続的な御旅所の設置を要望し、1978(明治11)年、「深川公園」内の現在の場所に「成田不動」の分霊を祀り、堂を建設することが認められ、1881(明治14)年に「深川不動堂」が完成した。1896(明治29)年、「永代寺」の塔頭であった「吉祥院」が「永代寺」の名跡を継ぎ、現在に至る。「深川不動堂」の建物は「関東大震災」で焼失、再建されるも、再び「東京大空襲」で焼失した。

現在の「深川不動堂」

現在の「深川不動堂」。左が現在の本堂、右が旧本堂となる。
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戦後、「深川不動堂」の再建にあたり、千葉県印旛郡本埜村(現・印西市)の天台宗「龍腹寺」の地蔵堂(江戸末期の文久年間(1861年~1864年)築)が移築されることになり、1951(昭和26)年に竣工した。2012(平成24)年には「深川不動堂」の新本堂が完成しているが、旧本堂も文化財として保存されている。


日本における最初の公園の一つ「深川公園」 MAP __

1873(明治6)年1月、政府は各府県に公園を設定するよう「太政官布達」を発した。「太政官布達」では、古くからの名所旧跡など多くの人が集まる場所を「公園地」とするようにあり、東京府は上野浅草飛鳥山・深川(いわゆる「東京五公園」)を選定。「深川公園」の場所は廃仏毀釈により廃寺となっていた「永代寺」の旧境内とされた。「東京五公園」は同年3月に「公園地」に指定され、日本における最初の公園となった。写真は1909(明治42)年頃の「深川公園」。【画像は1909(明治42)年頃】

「深川公園」は1975(昭和50)年に東京都から江東区へ移管された。現在は「深川不動堂」を挟んで東西に分断されている。

「深川三十三間堂」で行われた「通し矢」 MAP __

室町末期以降、京都の「三十三間堂」では「通し矢」と呼ばれる弓道競技が盛んになった。江戸初期の1643(寛永20)年には、浅草に「江戸三十三間堂」が建立され、ここで武芸が磨かれ、競技も行われるようになったが、1698(元禄11)年に火事で焼失。1701(元禄14)年に「富岡八幡宮」の東に移転・再建され、「深川三十三間堂」とも呼ばれるようになった。江戸末期となる1855(安政2)年の「安政江戸地震」で建物の一部が倒壊、再建されないまま明治を迎え、1872(明治5)年に取り壊された。図は1869(明治2)年に三代・歌川広重が描いた『東京名勝圖會 三十三間堂通矢の図』。【図は1869(明治2)年】

1869(明治2)年、「深川三十三間堂」があった場所の町名は「通し矢」にちなみ、深川数矢(かずや)町となったが、1931(昭和6)年に「関東大震災」からの復興の区画整理によりこの町名は廃止された。現在は、「江東区立数矢小学校」の校名にかつての町名が残る。「深川三十三間堂」の跡地には「三十三間堂跡」の碑が建てられている。

門前仲町の商業地としての発展 MAP __

「富岡八幡宮」の別当「永代寺」の門前には、1653(承応2)年に町屋が造られ、門前町として発展した。江戸後期の切絵図には「永代寺」の西南に「永代寺門前仲町」、東に「永代寺門前東仲町」などの町名が記載されている。江戸後期には花街としても賑わった。明治期に入ると、「永代寺」の廃寺に伴い町名は「深川富岡門前仲町」などに改称。引き続き商業地・繁華街として賑わい、現在に至っている。写真は昭和初期の門前仲町。右から二軒目の店は、1917(大正6)年にこの地で創業した「赤札堂洋品店」、三軒目の店は1905(明治38)年創業の和菓子店「岡満津(おかまつ)」。通りの先には「永代橋」のアーチも見える。この区間の路面電車は、市電(のち都電)洲崎線として1911(明治44)年に開通、1972(昭和47)年に廃止された。【画像は昭和初期】

写真は現在の「門前仲町交差点」。和菓子店「岡満津」は現在も同じ場所で、「赤札堂」は「清澄通り」沿いに移転しスーパーマーケットとして営業を続けている。中央の通りは「永代通り」と呼ばれ、地下に東京メトロ東西線が通っている。南北(写真では左右)に通る「清澄通り」の地下には都営大江戸線が走っており、この交差点の下に「門前仲町駅」がある。


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