図は1885(明治18)年の「成田山」の出開帳の様子。明治に入っても人気であったことがわかる。【図は1885(明治18)年】
「成田山新勝寺」(以下「成田山」)は、平安中期、「平将門の乱」において、朱雀天皇が調伏祈願を命じ、平定となったことから創建された古刹。本尊は空海作といわれる不動明王像で、戦国時代の1566(永禄9)年に成田の現在地へ遷座した。江戸前期になり、初代・市川團十郎が「成田山」に子宝祈願をしたところ、すぐに二代目・團十郎を授かったことから、1695(元禄8)年に「山村座」で『成田不動明王山』を上演すると大成功となり、「成田屋」の屋号を名乗るようになった。
これにより「成田山」の名は江戸中に知れ渡ることに。こうした人気に支えられ、「成田山」は、1703(元禄16)年以降、度々、江戸・深川の「永代寺」(「富岡八幡宮」の別当寺)境内へ不動明王像を運び出開帳を行い、多くの参拝客を集めるようになった。また、江戸後期にかけては「成田山詣」も流行し、「小名木川」の「行徳船」は参拝ルートの一つとなった。
「深川不動堂」の門。【画像は明治後期】
明治期になると、深川の「永代寺」は、廃仏毀釈により廃寺になり、旧境内は「深川公園」となった。「成田山」の信徒らは深川への永続的な御旅所の設置を要望し、1978(明治11)年、「深川公園」内の現在の場所に「成田不動」の分霊を祀り、堂を建設することが認められ、1881(明治14)年に「深川不動堂」が完成した。1896(明治29)年、「永代寺」の塔頭であった「吉祥院」が「永代寺」の名跡を継ぎ、現在に至る。「深川不動堂」の建物は「関東大震災」で焼失、再建されるも、再び「東京大空襲」で焼失した。
現在の「深川不動堂」。左が現在の本堂、右が旧本堂となる。
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戦後、「深川不動堂」の再建にあたり、千葉県印旛郡本埜村(現・印西市)の天台宗「龍腹寺」の地蔵堂(江戸末期の文久年間(1861年~1864年)築)が移築されることになり、1951(昭和26)年に竣工した。2012(平成24)年には「深川不動堂」の新本堂が完成しているが、旧本堂も文化財として保存されている。