現在の河田町一帯は、江戸期には大名の下屋敷などが置かれていた。広瀬藩松平家の下屋敷だったところは、明治期に尾張徳川家最後の藩主、徳川慶勝の十一男である男爵、徳川義恕(よしくみ)氏の屋敷となっていた。この屋敷は終戦後の1946(昭和21)年にホテル「河田町会館」(写真)となり、その後一時期「英連邦占領軍」に接収、司令官邸とされたが、1952(昭和27)年に返還され、営業を再開した。
出版業が盛んな四谷・牛込には、戦後になるとラジオ・テレビの放送局も誕生、情報の発信地としてさらに発展した。明治期以降に多く立地するようになった学校や病院は、戦後も新設・建替えがあり、現在も教育や医療の充実した地となっている。